なぜ、あの人と会うといつも疲れるのか?

あの人と会うととにかく疲れる。家に着くとしばらく動けない。会うのは半年後くらいでいっかな。
そう思う相手、いるだろうか。

私にはいる。そして私の思う疲れる相手とは以下のどれかに当てはまる。

・決めなくてはならないことを丸投げしてくる
・価値観を押しつけてくる
・話を聞いてくれない(聞き役をやらされる)
・見当違いの回答をしてくる

さて、この「疲れる」。私の中の何かが奪われるから、そう感じられるのだろう。
果たしてそれは何だろう?

エネルギーがみなぎってくるとは?

誰かに受け止められたと感じると、自然と元気や勇気が湧いてくる。自分という存在を肯定されると、内側からエネルギーがみなぎってくる。

つまりエネルギーの泉源は、受け止められること、すなわち「自分という存在の肯定」。

だから我々は肯定的な返事が好きだし、肯定してくれる人のところへと寄っていく。

「疲れる」とは?

だとすれば、元気がでるの反対、疲れるは、「自分という存在の肯定」が奪われること。
先ほど挙げた4つの例に照らし合わせると

丸投げしてくる→これは肯定とは無関係に見える
価値観の押しつけ→自分の価値観が否定されるので、肯定は奪われる
話を聞いてくれない→自分の話を斥けられているので、肯定は奪われる
見当違いの回答→これは肯定とは無関係に見える

4つのうち2つは、肯定を奪う行為だったが残り2つは違った。
「疲れる」とは「自分という存在の肯定」が奪われることだけじゃないのか?

そこで丸投げでは何が奪われるかを考えてみる。
それは…
「相手の分まで考えなきゃならん労力が奪われる」

見当違いの回答は?
「話を収拾させなきゃいかん労力が奪われる」

この2つは、私の中に存在する「肯定」という気持ちを奪うんじゃなくて、本来やらなくてもいい労力を奪っていくところが疲れる原因。
それもこっちの方が悪質。
プラス(肯定あり)をゼロ(肯定なし)にするんじゃなくて、マイナス(労力まで奪う)にするってところが。

それを反映してか、ちまたでも丸投げしてくる人への不満が噴出している。
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疲れるを理由を掴んでおこう

私たちは肯定や労力を奪われると、「疲れた」状態に墜ちる。

それは気持ちをむしり取られるから。お金を奪われるのと同じくらいのダメージを受ける。
ウソ?と思う人は想像してほしい。高齢者が手伝ってくれたり優しくしてくれた若者(詐欺師)にお金を渡してしまうところを。肯定や労力は千金に値するのだ。

ということで、お金と同じくらい大切なものを奪われるから、疲れるの。なんにも失ってないわけじゃないよ。

自分を大切にしようね。