相手を見下す気持ちがあることを認める

つい相手を見下してしまう自分がいる。「私はあの子よりはマシ」「あんなことやるなんてバカじゃない?」と、心の中で毒づく。

さかのぼると、まさにそのような言葉を吹き込まれて育った。「従姉妹の○○ちゃんは成績がいまいちで私立大学しかいけないらしい」「近所の○○ちゃんは不美人だからなかなかお相手が見つからないみたい」と言っては、ほくそ笑む母。幼い私は「へぇ~、そう」と思いながらも、会話というのはこういうもんだと学んでいった。

そして私が中学生になるころには、親と同じ立派な高慢ちきに成長。成績の悪い人を見下し、運動できない人をバカにして、それはそれは嫌なヤツへと育っていった。でも、自分ではそういう自覚はなくて、むしろ自信のなさに苦しんでた。そこでせめて周りからの関心を得ようとして、大変だった話や可哀想話を盛った。(現代でいうなら、twitterなどで病みツィートをして注目を得るに近い行為)

そうやって、人をバカにし、周囲に持ち上げられようと苦闘している最中、自分のやってることの危うさに気づきもしなかった。従ってあいも変わらず誰かを見下し、滅多斬りして、排他街道を突き進んだ。

だが10代後半にもなると、さすがに人が離れてく。最初は上手く連(つる)めても、だんだん溝が出来て…、人が居なくなる。こっちから声をかけようとお誘いするも、1回こっきり。それも1回でヘトヘトになってしまって、次やろうという気が起きない。

ここへ来てようやく気いた、「何か間違えている」。

間違ってたこととは?

人に囲まれる人は、周りを元気にしている。一緒にいるだけで、「私が私をいいやつだと思える」ようにサポートしてくれる。けして白々しいおべっかではなく、さりげなく、でも納得できる言葉で。

それをみて、「あれ?私こういう言葉ってかけられたことあったけな?」と思い返した。そして見事「ナイ」と気づく。本来与えられるべきサポートが欠け、そのせいで私が誰かをサポート出来ずにいた!!
これが間違えていることだった。

かといって、これからサポートを受ければいいというものではない。というのも、大人は既にサポートをする側のポジションで、サポートを受ける時期は終わっているから。だれかに頼んだとしても、よほど濃い関係でもない限り、断られるだろう。だから一端サポートを受けるは横に置く。

どうすればいいのか?

その代わり、自分の中に「人を見下す精神がある」ことを自覚する。自分を立派な人と勘違いして、「見下すなんてとんでもない。そんなのやったことありませんよ」と高尚なふりをするのをやめる。醜い素のままの自分を受け止める。すると、繕うために人を見下そうとしている意識が薄らいでいく。

そもそも誰だってそれなりに相手のポジションが気になるし、うわさ話に興味を示すし、不倫だ・ハラスメントだという煽りには同調してしまう。それもこれも、「人を見下す性質」が原因。もしかしたら、全員がそれなりに見下す性質を持ってるのかもしれない。

だから自己卑下する必要なんてない。むしろ自覚が持てると、線引きができるようになる。自覚している人は、これ以上は愚かだと詮索を引っ込めるのに対して、自覚のない人は、もっと知りたい!もっと掘り起こしたい!と、思うがままに突き進んで下劣さを極めてしまうから。

それが高じて危ない人認定されたり、ストーカーになったりしては、誰もが不幸。

取り返しのつかないほどの嫌われ者になる前に、自分に向き合って、醜さに正対してみる。だいたい悪いことは逃げても逃げても追ってくるもの。だったらこういった機会に向き合ってみる! そしたら人生の問題が一つ片付くかもしれない。