子供を信じられない親に育てられた私を変えた考え

精神的な問題を抱える親に、カウンセラーを紹介した。とはいっても、そのカウンセラーを直接知っているのではなく、コラムを見て良さそげだったから。親が落ち込んでるみたいなので、少しでも力になれれば、と思ったのだ。

ところが後日「あのカウンセラーはちっともよくない。そして金に汚い。今、金欠だから、あんな高いお金取られるのは痛手だった…」と言ってきた。それを黙って聞く私。

いつもこうだ。なんにでも文句をつけ、気に入らなければ人のせいにする。紹介されたとしても、行くと決めたのは自分なのに。ロクに下調べもせず、娘の言うことを鵜呑みにして、上手くいかなければ娘のせい。

娘は母親の面倒をみるために存在しているのではない。

母親の過ち

かといって放っておくと、それまた「誰も私を気にしてくれない。私がどうなってもいいの?」とのたまう。人のアドバイスをけちょんけちょんにいっといて、この有様。自分の失態に気づく客観性すら持ち得ない残念な人。

思い返せば、万事がこんな風だった。良くないことは人のせい。だからなんでも娘になすりつけ。
「あれやれ、これやれ」と小うるさくつきまとい、できなければ「あなたどうするの?お母さんが恥じかくじゃない!」と怒濤の責め攻撃。おかげで私は人の顔色をうかがう小心者に育てしまった。

当然ながら、親に信じてもらった経験はゼロ。ただ命令を聞くロボットとして、母親の自慢の種であり続けた(といっても、常人に毛が生えた程度だけど)。

そういう子育ては(精神的に)きっと楽だったに違いない。人を信じることは難しいが、疑い批難することはカンタンだから。

そんな母親の元で育った私を変えた考え

大人になった私は、信じてもらう経験の不足から、人を信じることの意味が分からず、10年近くも苦しんだ。だが、ある考えとの出会いを境に、信じるの意味を知った。それは日常の些細な一コマを切り取ったものだった。

それまでの私は、信じるとは熱血教師が「おまえらを信じる!」みたいなことを叫ぶ特殊な状況で、自分には起こりえないと思っていた。
でも違う。何気ない日常にこそ、信じるの萌芽がある。

世の中、人を信じられないことに悩んでる人が大勢いる。それは母と娘の関係にとどまらず、上司と部下、友人同士、恋人、夫婦まで及ぶ。その人たちが信じるの意味を知れば、人間関係の悩みはどれだけ軽くなることだろう。

お互い仲良くなるには、ほめるんじゃなく信じることから。信じられるからこそ、相手の良いところが見えて、心の壁が取り払われる。無理に褒めたり、迎合したり、良いところ探ししたりなんてしなくていいんだよ。

だから信じるを知るから始めよう。私の出会った考えのリンクを張っておきます。もしよろしければ、目を通してみてください。ハッと気づく何かがあるかもしれません。
blogos.com