デキちゃった結婚がダサく見える理由

デキちゃった結婚を経験してない人からみて、デキちゃった結婚はなにかとひっかかる存在だと思います。

不妊がクローズアップされる昨今、子どもが出来たというめでたい面に光を当てれば、「出産、おおいに結構」ということになるのだけれど、反面”なんだかなぁ…”と。
それはひとえに、本能に流されるまま性行為を行った理性のなさ、への侮蔑とでもいったらいいのでしょうか。と同時に、デキちゃったから結婚って、本当に二人で育てていけるの、という懐疑性もあるのでしょう。

そういう負の感情の入り交じった感じが、”なんだかなぁ”につながっているのです。

でも本当にそうでしょうか?
突き詰めて考えると、もっと確たる理由があって、私達はデキちゃった結婚をダサく思っているのです。

ひっかかりのない結婚とは何か?

「結婚します」と言われて素直におめでとうと言われる結婚とは、二人が踏むべきステップを踏み、着実に前に進めていった結果、結婚という形に収まった場合です。

具体的には
お付き合いをして、互いを十分知り、ずっと一緒にやっていけそうだと見通しを立て、この人となら、と思えたらプロポーズを経て結婚という運びになる形。

これは当人だけでなく周りも、こういう風に進むんだよね、と思っているので、結婚の報告をすると、手放しで祝福されます。

ひっかかりのある結婚とは?

ところがデキちゃった結婚の場合、一般的に踏むべきステップをいくつか飛ばして、エイヤッと性交渉に及んだ結果、妊娠することが多いです。

これでは周りの理解は追いつかず、とまどうばかり。もしかしたら当人たちでさえ、妊娠という事実に振り回され、困惑しているかもしれない。そういう、誰も何も決めてない状態で、妊娠という事実だけが、結婚を牽引しているのであれば、周りからの納得を得にくいです。

少なくとも、尊い命が誕生しようとしているときに、親になるべき人間が、”妊娠したから結婚するんだよね”といった態度でいれば、”この二人に子どもを育てる資質は備わってるんだろうか”と疑念を抱かれても致し方ありません。

デキちゃった結婚でも認められるには

つまり周りがひっかかりを持つかもたないかは、自分たちで決めたのか、欲望に流されてそうなったのか、の違いに帰結するのです。言い換えれば、結婚という一つの決断に対して、主体的にいたか、受動的にいたか、ということになります。

主体的であれば、決断した自分たちがすべてを背負う覚悟が出来ているので、どんな困難も受け入れ進んでいく力強さがあります。それに比べて受動的であれば、「あのとき○○だったからこうなった」と誰かに責任を押しつけようとするので、困難が押し寄せたらもろくも崩れ去りそうな弱々しさを呈しています。妊娠で授かった人類の次世代の貴重な命を、その弱々しい人々に委ねていいのか…と考えるとき、多少なりとも「否」と思うからこそ、デキちゃった結婚に負の感情を抱いてしまうのです。

ですが負の感情を抱くことで、性的乱れの抑制している面もあり、知らず知らず生殖爆発の危機管理がなされている、と思ってもいいでしょう。
ダサい、と感じるこの単純な感情でさえも、我々がより賢く生き延びるため強力なツールなのです。

主体性のない人間は、自分の能力を開発できず、居場所をつくることも出来ず、下手をすれば国家のお世話になることさえある。そういう人を一人でも減らし、みんなが自分の能力を発揮できる世界を目指すなら、デキちゃった結婚であろうとなかろうと、主体的に生きることです。一生懸命自分を全うしている人間は、過去はどうあれ、周りが必ず認めてくれます。