親が誤って子を死亡させてしまったとき、どうすればいいのか

ー親が目を離した隙に、車の死角に入ってしまった我が子を誤ってひいて死亡させてしまったーという痛ましい事故を聞く度、なんとも言えぬ気持ちになる。

愛しい我が子、これからの成長を楽しみにしている我が子。そんな我が子を一番に守ってやる親が、意図しせずして子の命を奪う。この理不尽さに耐えうる親などいるだろうか。

自分はそんなヘマなどしない。そう思って、対岸の火事と思っているのも一考だが、その一方誰しもが事故の当事者になりえる。
ほんのちょっとの、気の緩み、チェックのし忘れ。それが重大な事故を招く。そんなとき私達はどうなってしまうのだろう?

二つの価値観は併存するのだろうか

愛する我が子を守りたい、という価値観と、そうはいっても注意には限度があって守れないときもある、という価値観は併存しうるのだろうか。
もし併存しうるのであれば、子の命はずいぶんと軽く取られたものである。守りたいと言いつつ、守れたらいいなという希望的観測くらいなら、併存しうるかもしれないが、どの子の命も親にとって我が命に代えても惜しくないほど尊く守り抜きたいものである。従って、併存しうるとは言いがたい。

しかしながら起きてしまった現実を前に、事故前に抱いていた我が子を守り抜くという一つの心の柱が、その力強さを保ってはおられなくなり、かといって自己を正当化する気にもなれず、親としてのアイデンティティはことごとく壊れてしまう。

そんな暗闇の中で何年もさまよい続け、ある人は生きることを選択し、ある人は息をしているだけになり、またある人は最悪の決断をしてしまう。
その分かれ目は一体なににあるのだろう?

生きて償うというやり方

企業に何か問題が起きたときは、責任者が職を辞すことを以て対処する。では、親は親を辞することが出来るのか、といえば、それはない。
親はいつまで経っても親であり、また残った兄弟を育てるという意味においても、親であり続ける以外ない。

だが、事故とは無縁の親と違って、十字架を背負った親は、親として適合しているか、己を疑っているだろう。では、その疑いを、肯定してみてはどうだろうか?

疑いながら、今日一日親としてどうだったか振り返って生きる。けして楽ではない。はっきり言って一日を生きることでさえ申しわけない気持ちかもしれない。それでも、今日の自分を見る。我が子を亡くしてしまったその日から、自分がどう生きて、どう与えているのか、ひたすらに見る。

そうやって、あの子が生きられたであろう未来につながる坂道を一歩一歩親である自分が進んでいく。生きていたなら、あの子が過ごしやすいと思った未来を親であるあなたの手で作っていく。

それは大それたことではないかもしれない。兄弟仲をよくするとか、きちんと自分の気持ちを伝えられるようになり子どもの良き手本になるとか。それでもチョウが羽を動かすだけで気象が変化するように、親の小さな一歩が社会を変える原動力になるかもしれない。
親の背中を見て育った子が、たくさんの命を救う仕事に従事するかもしれない。

子を失った親ほど、命の大切さとはかなさを痛感し、それを守るための策を講じることを使命とする人はいないだろう。はっきりいって起こってしまったことをナシにはできない。けれど、同じ事を起こさないための方法なら見つけられる。

心ない人が責めてくるかもしれない。でもその人は、あなたの苦しみの何を知っているというのだろう。あなたの人生の責任はあなたしか取れない。苦しみの底に落ちたあと、ふと上を向きたくなったとき、「今日一日親としてどうだったか振り返って生きる」をまずはやってみて欲しい。

死ぬのはいつでもできる。生きてこそ、償えるんだ。