人間関係が上手くいかない人に欠けているたった一つのこと

離婚の理由首位は、「性格の不一致」です。性格、すなわち夫と妻が持ち合わせているそ性質に、一致を見いだせなかった。だから別離を選んだ、と。

たしかに頑張っても平行線の交渉は続けるだけムダです。交わらないなら交わらくて結構!という結論を下してしまえば、その後の労力をセーブできる。とても合理的判断だと思います。

では、その合理的判断を繰り返したら、どうなりますか?

一人になります。

そしてあなたがもし一人であることに心を痛めてるとすれば、合理的ながらも、なにかが欠けてるからに違いありません。それはなんなのでしょうか。

f:id:idea-for-life:20190106183355j:plain:w400

人は思わぬところで人を傷つける

人と人が交われば、そこにはなんらかの力が働きます。いい方向だけではありません。ときとして、悪い方へと向かってしまうことがある。

たとえば、AさんがBさんのためにお土産に「肉まん」を買っていったとしましょう。ところが中身が肉まんとしったBさんは、鬼の形相で「酷いじゃない!」と怒り狂った。Aさんはよかれとおもって肉まんをあげたのに、責められるのは、心外です。とうぜん怒りに火が付きます。「なによ!肉まんのどこがいけないの。もういい、帰る」。こうして二人の仲は壊れてしまいました。

さて、この場合AさんとBさんのどちらが悪いか、正確に判断を下せますか?

私は下せないと思います。なぜなら、肉まんを見たBさんに何が起こったのかさっぱり分からないからです。

もう少し情報を加えましょう。Bさんは3年前、好きで好きで堪らなかった恋人に、突然フラれました。フラれた場所は、コンビニの駐車場。二人でコンビニで肉まんを買い、出てきたところで口げんかになり、「もう、終わりにしよう」と一方的に告げられました。そのことをBさんはAさんに話しました。そのとき「肉まん、トラウマになるかも…」とBさんは言いました。

ですからBさんは、よりにもよって肉まんなどという過去の忌まわしい記憶を思い起こさせるものを、よくも渡してくれたな!という気持ちに突き動かされて「酷いじゃない!」といったのです。
言われたAさんは、3年も前のBさんのひと言など、とっくの昔に忘れています。となればこれは完全にBさんの言いがかりに思えます。

【傷つけられた】と憤るBさんと、【気づかいを台無しにされた】と思うAさん。どちらも被害者です。でも、両方が被害者面してれば、歩み寄りの機会は訪れません。第三者から見れば、「きちんと話し合えばいいのに」というのが正直な気持ちでしょう。

こんな風に人と人が交わり合うと、思わぬところで人を傷つけてしまうのです。

解決するには?

もちろん話し合えば良いのは明白ですが、いかんせん両方が、自分は被害者だと認識している。向こうが謝るならともかく、こちらが先に謝るいわれはないわけです。

そこで謝るか謝らないかはさて置き、”はたして相手のことを十分に考えられていたであろうか?”と考えます。これは相手ではなく、自分への意識のスイッチです。”あのときの自分には、慢心がなかったか、至らぬところはなかったか、想像の足りてないところはなかったか”、そうやって、過去を振り返るとき、一つや二つ、これが足りなかったかな…、と思い当たる節があるはずです。

相手のせいではなく、自分の足りなかったせい、と思えれば、被害者意識は薄れ、自らの非を受け入れざるを得ない心持ちにシフトするではないでしょうか。

これを「自己を省みる」といいます。「省みる」ができると、思わぬところで相手を傷つけてしまっても、その回復に着手できますし、もし決別した相手と連絡がつかなくても、別の人との間で同じ過ちを繰り返さずに済みます。

勝敗にこだわるのは「カッコワルイ」

この「省みる」が分かっていない人ほど、相手からの謝罪にこだわります。要するに、「私は間違っていなかった」という勝利感と、相手を征服することに強い悦びを感じるのです。でも、そんなエゴに付き合うほど、みなさんヒマではありません。

さっさとその人を斬るでしょう。孤高をきどっているつもりが、じつは相手から斬り捨てられてるとすれば、それはいわゆる「カッコワルイ」状態。そんな惨めさを晒すくらいなら、悦びに浸る自分から省みられる席へと移った方が建設的ではないでしょうか。

誰に対し「省み」誰に対して「省みない」か

ただ「省みる」には、ひとつおおきな問題があります。

それは、「省みること」に多大なな労力と知力を要することです。会う人全員に対して省みられるのであれば、それに超したことはありませんが、時間も考えるリソースも有限です。省みる対象はあくまで、夫婦のような生活を一つにする者、友人のような人生を豊かにする者に限られます。知人、その他仕事で会った人は、なにか強いインセンティブが得られるときであれば、省みてもいいくらいに捉えておきましょう。

人付き合いにメリハリは必要です。世の中にはサイコパスといった搾取の達人や、勝敗にこだわるエゴイスティックな人がいます。関わるのが大変な人に時間を割かれて、大切にすべき人への応対が後回しになれば、それこそ本末転倒です。

省みるのに適当な相手、受け流すのに適当な相手。きちんと線引きしましょう。

「省みる」のは当たり前の理屈

誰かと一緒にいることは、幸せを保証することではありません。しかし、「Happiness is LOVE.」、幸せは(人と人との間にある)愛であるという研究結果が示すように、人と人の交わりのなかに、幸せは生まれやすい。

だから古今東西、人は人を求めて、動き回るのです。人と人の間にこそ、幸せの本質があると、みな知っているからです。

人と人が交われば、そこには人を傷つけてしまう場面が生じる、だとすれば、それは同時に、ケアの必要性も生じます。そのケアについてあまり語られてはきませんでした。でも改めて考えると、壊したから直すというのは当然といえば当然のことです。

その当然ができていなからこそ、人々は人間関係のトラブルに頭を痛め続けるのです。
円滑な人間関係に「省みる」は必要!←そう、覚えてもらえると幸いです。