若者の所得が下がるにつれ、二世帯三世帯で一緒に住むのが賢い選択という広告を目にする機会が増えました。
核家族であれば手の足りないことも、じいちゃんばあちゃんの手を借りればなんとか乗り切れる、ということも、あるにはあると思います。でも、いつまでも良好な関係を続けるには、それ相応のハードルがあります。
自分たちがそのハードルを超えているかをチェックせずに、見切り発車するのはどうなんでしょうか。一緒に住むから、過ごす時間が長いから、わかり合えるのではないのです。
同居が上手くいかない理由
あなたはコミュニケーション力に自信がありますか?
YESと答えられる人はどれくらいいるでしょう。ほとんどの人は、コミュニケーションの専門学校を出たわけでもなく、資格を有してるわけでもない。だから、普通かそれ以下という認識です。
そういう人々が狭い空間で過ごすとどうなりますか?
諍いがおきます。
ある人にとっての正しいが、別のある人にとっては間違っている、というのが当たり前だからです。このとき、どちらかが折れるという形で決着します。そして、折れる側はいつも決まっています。力の弱い方です。
折れた側は自分の正しいが貫けない毎日に、過大なストレスを感じます。で…
爆発します。身体が不調になったり、精神が不安定になったり、陰湿な嫌がらせをしたり。そして家族は不幸に堕ちていきます。
だからこそ狭い空間を共有する同居は上手くいかないのです。
良好な関係を続けるための条件
でも、上手くいかせる方法があります。
徹底的に相手を他者だと認識し、わけのわからん他者と自分の重なりを、あらん限りの知恵を振り絞って考えればいいのです。ポイントは、【徹底的に】と【あらん限り】です。要するに、チョーレベル高!!ということ。
私達はおのおのが「常識」という旗を振りかざして、暮らしています。それをやめてしまって、「常識」なんてポイとゴミ箱に捨ててしまって、話に耳を傾け、”フムフム、そう考えているわけですね”と理解に意識を集中させ、理解したあかつきには、自分との重なりを見つけるために、視点を何段階も外へ、外へと拡げて考え続ける。
これを全員やる必要がある。
なんだかとっても大変そうでしょう?少なくとも、並の頭ではオーバーヒートしそうな考察の連続です。ひと言で表すなら、超自我への超越ですから。
こんな訓練、誰が受けたことあります? 徳をつんだ坊さんか、死の淵を彷徨った人かくらいしか、たどり着けない境地ですよ。
通じるを前提とした文化ではまず無理
多民族国家にいるのなら、わけのわからん他者とどのようにしたら通じ合えるかは、日々考えざるを得ないテーマです。ですが、我々のような単一民族は、通じることが前提で、わからないことは恥だったり、排除の対象とされたりするがゆえに、なるべく隠そう・目を逸らそうとします。
まともに覗いたことさえないテーマを、同居するからとある日突然考え始めることができるでしょうか。何十年も積んできた思考のクセを修正することができるでしょうか。
無理です。だから通じるを前提とした日本文化での同居は土台無理なゲームです。数ヶ月後、いや数年後に、破綻するか、外面だけ繕う張りぼてとなることでしょう。
スープの冷めない距離は絶妙
家を買うには多額の資金がいります。それをポンとキャッシュで用意できる家庭は多くはありません。生涯でたった一度、デカい買い物をするなら、もし予測が外れたとしても痛手を最小限にとどめるのが、賢い選択。
先ほど言いましたとおり、人と人の間には、ほんの些細な違いから、諍いがおきます。もし、諍いがおきても、住む場所を失わない、というのは最低限のリスクヘッジではないでしょうか。
敷地内同居なら問題ない?
そんなことありません。敷地内同居の場合、お互いに絶対顔を見ないというのは無理です。でもワンブロック、ツーブロック離れていれば、気が済むまで顔を合わせずにいられます。そして仲がよいままであれば、ちょくちょく顔を見に来られる。
とても柔軟性に富んだ選択です。
どんなに仲が良くても、心理的距離、空間的距離は必要です。距離があるから、相手の生活リズム、作法が気にならない。自分のスタイルが確保できるというのは、私達が思うよりずっと、心の安定をもたらします。
一緒に住むことだけが、家族のあり方ではありません。二世帯住宅は、親世帯、子世帯ともに頭がオーバーヒートしそうな考察を要します。よほど坊さんのように徳を積みたい人以外はまったくオススメしません。