美人の引き立て役として空気扱いされ落ち込む人に出来ること

美人の友だちばかり注目を集めて、私はいつも引き立て役。運動会でも、文化祭でも、合コンでも、同窓会でも。私なんかいてもいなくてもいい空気扱い。無視されてるようで哀しい。

そんな風に思っていませんか。

分かります。私もそういう側の人間です。ちやほやされる人の傍で、まるでいない人扱いされるのって、傷つきますよね。でも、哀しんでるだけじゃもったいないですよ。粘れば、出来ることがあるかもしれない。

それを考えてみませんか?

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美しい人に人が集まる理由

美しい人にたくさんの人が集まってくるのは、「そりゃ、きれいだからでしょ。」

ハイ、そうです。では、一歩踏み込んで、きれいだったらなぜ人が集まってくるのでしょう?

「きれいは見てていい気持ちになるからでしょ。」

そのとおり。「いい気持ち」になれるんです。いい気持ちになるということは、そこには、いい気持ちにさせる何かがある。

その何かは、気持ちの高まりです。人は美しいものを見ると、心が躍ります。美人な造形が、気持ちの高まりを与えているのです。そして、皆それを受け取りたくて、集まってくる。これが美人に人が集まる理由です。

与えられるのは美しさだけ?

では、私達が与えられるのは、美しさ以外ないのでしょうか?

そんなことはないですよね。衣食住、自由、富、などがあります。そして、意外性も該当するのではないでしょうか。衣食住や、自由、富というのは与えるハードルが高そうなのに対し、意外性ならなんとかなりそうな気がします。

そこで「意外性」に絞って考えてみると、あなたが美人の引き立て役でいるとき、意外性がなければ、黙って渋い顔をしているか、周りに同調してやっぱり美人っていいですよねという同調を示すしかないのを、意外性があると、「あなたは美人さんのどの部分に惹かれますか?」という言葉を繰り出せる。

これは哀しみの感情を乗り越え、集まってくる人に焦点を絞ったからこそ生まれる言葉です。もちろん全員が全員、あなたに目を向けるわけではありませんが、中には「話しやすいな」とか「この人、なんか懐深くない?」と思う人もいます。

同調ではなく斜め上の意外性と、美人はいいものだという同調性を以て相手のそのまんまの気持ちを受け入れることは、それ相応のメリットを与えることになります。

人は奪うものに身構え、何もせぬ者を無視し、与えるものに集います。自分が与えられるものは何でしょう?そこに意識を向けると、美人の前で腐ってる場合ではない、という危機意識が芽生えるのではないでしょうか。

美人に卑屈になったときは

美人はたたずむだけで、与えるものが多いです。だから誰彼なく惹きつけ、あなたのみじめさを増長させるでしょう。かりに意外性で同等の魅力を狙ったとしても、追いつけないかもしれない。

そういうときは、美人に集まる人の性質を考えるのです。美人に集まるのは、美しいがゆえです。彼らが愛してやまないのは、美しさそのものであって、中身ではない。だからひと度、美しさからずれたものが見えると、とたんに手のひらを返します。

エゴの対象として愛でるから、エゴの対象に当てはまらなくなったら、即刻クズというわけです。そんな不安定な心の持ち主に集われたとして、なにがうれしいのですか。

人の幸せの一つは、周囲に受け入れられることです。受け入れられるを実現するには、エゴの対象として集われると、人としての魅力によって集われるの二パターン。二つを見分けることは難しくとも、時が経てば、いずれ露わになることです。

もし美人が美人であるがゆえにあぐらをかき、エゴの対象から外されたとしたら、後に残るはなんなのでしょう。

どの人も年を取り、見た目の美しさは失われていきます。ですから物をいうのは、中身。

そのために、自分の哀しみの取り扱いに手を掛けてみましょう。哀しみに飲み込まれているようでは、まだまだです。