わかりあえるか・あえないか どう判断すれば?

「人間同士なのだからわかりあえるよ。」一昔前までそう信じて疑わなかった。
だけど身近な人間との意思疎通ができない様を何度も体験して、「人を選べば
わかりあえる。」に考えが変わってきた。

というのも、高次脳機能障害の一種であるアスペルガー障害というものを知ったから。
この障害の人は、他者の心がわからない。共感とか共鳴とかが全くできない。
当然「わかりあえる」日は来ない。

今までブログでさんざん「聴く」ことは大切だよと述べてきた。けど、この提言には
【「聴く」ことによって、互いに信頼関係が築け、よりわかりあえる】ということが
前提として含まれている。
だから、「わかりあえる」日がこない人との間にこのルールが適用できるかといわ
れると疑問だ。

「聴く」というのは、大変な労力と人間力を必要とする。だから、どちらかが一方的
に「聴き続ける」というのは搾取に近い。それに聴く側も、相手が聴いてもらうこと
よって内省が進み、変容した喜びを共有できるからこそ「聴き役」になれるんだ。

そうならないのが分かっていて、やりなさいとはとてもいえない。

でも、このわかりあえる可能性がある人とない人をどうやって見分けたらいいのか
正直分からない。
わかりあうために、私は「聴く」ことに徹し、あまり感情的にならないよう工夫したり
もするが、それでも被った害の大きさについつい声を荒げてしまう。
ここはプロのカウンセラーに頼るしかないのか?

なんか判断基準があったらいいのになー。理系男子は特に、感情のやりとりが
大の苦手。単純に共感する技量がないのか、脳の機能として抜け落ちているのか・・・。
これって理系男子と生活を共にしたい人には重要。

私の強引な判断だけど、他者の感情を察知して、積極的に行動できる能力が限り
なく低い人が、結婚したくても、できない気がする。
当たり前だけど、結婚は与えられることではなく、与えることでしか成り立たないから。
会った当初から、相手に「話しかけてもらう」「連絡をしてもらう」etcと受動的な態度で
いたら、いつまでたっても誰とも仲良くはできないだろう。

誰かと一緒にいるということは、その人と情報だけでなく感情も交換すること。
それができないなら一人で生きていく方が幸せだと思う。
結婚することが絶対的幸せではない。自分の生きたいスタイルに合わせていればいい。

だけど、私は誰かと共に歩む人生を選択したい。だから、わかりあえる能力の
ある人を選びたいなあ。