結婚って、必要な家具を買うようなもん

結婚という響きは「愛」「幸せ」などロマンスにあふれた単語と直結している。
私は30数年間結婚とロマンチックなイメージを重ねていた。
ところがいざ結婚してみたら、というより結婚した日から、なにもない日常そのもの
だった。記念という単語もないほどに淡々と事務作業をして、結婚手続き終了である。
それが悔しくって、相手にずいぶんと苦情を言ってきた。

しかし精神科医と相談する中で、結婚って我々が想像しているものとは違うのだと

実感した。
たぶん、引っ越しをしてタンスを買わなくてはいけなくなったときに、家具屋をちょっと見て回って、めっちゃデザインのダサイものは避けて考えたとして、値段もまあまあ
気に入り度もまあまあなものみつけて、お買い上げしたくらいの感覚が結婚に似ている。
たまにめっちゃ気に入ったタンスに出会える人もいるかもしれないが、それよりも
タンスを買わなくてはいけない現実の方が優先されるので、おのずとまあまあ気に入
ったタンスを買うのが、現実的な選択。

もし、こんなイメージを結婚に持っていたら、私はこれほどまでに配偶者とわかりあえ
ない日常を嘆くことも、愛がない生活に落胆することもなかった。
まあまあ気に入ったタンスに「なんで、おまえもっといいデザインじゃなんや!」と
怒鳴らないのと同様に。

結婚を冷静に分析したときに、このような気に入ったタンスレベルで結婚を判断して
いたとしたら、小学校の学級一クラス(40人)は妥協の産物で結婚したカップルの生産
した生命の成長した結果である。(なんともドライな感覚だけど)
低学年の時に「おとーさんとおかーさんが愛し合って結婚して、貴方たちが生まれた
のよ」と習うけど、それはウソである。でもそう習うから、子供達は無邪気に親に
「おとーさんのこと好き?」と質問するのである。そう聞かれて、親は「好きだよ」と
心にモヤモヤした感情を抱えながら答える。猿芝居みたい。

そうやって成長したら子供は結婚は愛がある者同士がする行為だと勘違いしない
だろうか?昨今恋愛結婚がもてはやされるのも、結婚に対するイメージがLOVEという
感情前提だからである。

教育とはときに罪であると思う。もし、結婚がもっと実直な理由によって執り行われて
いると習っていたら、私は夢など持たなかったし、現実とのギャップに苦しむことも
なかった。
夢は大事だけど、夢によってつぶされる気持ちというものもある。
どんなに厳しくても現実を伝える方が、あとあとその人を救うことになるのだから
いい加減、結婚産業や結婚雑誌はロマンスというかぶり物をすっぱり捨てて、
結婚とはこんなさっぱりしたもんですといったらいかがでしょう。

私は自分が苦しんだ分、この虚像に惑わされる人間を一人でも減らしたいなと
思うのです。