愛は厳しい

人に嫌われることをずっと避けてきた。皆にへらへらして、角をたてないようにしてきた。
それは昨日のブログでかいた「情」ゆえ。
でも本当は怖かった。人に嫌われたら、まるで自分に価値がなくなるのではないかと。

だけど自信とは自分で信じること。他人に信じてもらう他信とは別物。

自分を信じるのに他人からの根拠(好かれること)は必要だろうか?
自分がいいと思えば、それを信じる、そう!信じよう。

愛とは相手が相手らしくいることを受け止めること。
ということは、自分も自分らしくいることを受け止めることになる。
自分が嫌だと思うことを無理に捻じ曲げて、好きと思わせ言葉に出す(へつらう)ことは
自分と相手への裏切り行為であり、そして愛の遮断である。
と同時に本当は相手の行為に自分が不快を感じているのに、快だと答えることは、
相手が考える機会を奪うことになる。
どんなに厳しい答えであったとしても、私が不快と思うものは不快と答えることこそが
愛だ。

愛は積極的な行為だけを指すのではない。相手に考えさせる機会を与えることも
愛である。時として耳障りなことを言う人は、強(こわ)く見えるかもしれない。
だけどその強さの後ろにある心の芯を見つめてみると案外やさしいのだと気づける
だろう。