幼いときから思っていた疑問

私は元々二人兄弟で、年の近い弟がいる。
部屋は多くないので、必然的にスペースを共有することになる。
そこで起こるケンカ「アンタ(弟)も部屋を片付けなさいよ。汚いと私(KOMA)が自分の
スペースを掃除してもきれいになった気がしない!」というもの。

この手のケンカ、大人になってからも夫婦間で<くつした脱ぎっぱなし><出したものを

しまわない>などの形で延長されますね。
きれいの基準が違う二人が、同じ空間を共有すると必ず起こる問題です。
それをどうしたらいいのか?
きれいな方に合わせるのが良いのか?汚い方に合わせるのが良いのか?わからず
終いでここまできました。

究極精神論だけで考えると、どちらの言い分も、自分の心が軽くなるモノローグに
過ぎません。つまりどちらも正しくない。
自分の主張を100万回相手にいったところで、ただの戯れ言なのです。
ここで取るべき選択は二つ。

一つ目は、スペースを分けるか別居する。
これは相手が変化することにしっかりと「絶望」をするということです。
できないなら、最初から出来ないことを前提にストレスのたまらない方法を選択し
ましょうってやり方です。
雨の日に、空に向かって「雨降らせるなや[E:annoy]」って怒るより、さっさと傘をさすという
方法。

二つ目は、相手の言い分に耳を傾けて、譲歩できる点がないか、解釈を変えれば
問題が収束するのではないかと探る方法。
物事の表面(ちらかすこと)にとらわれるのではなく、その現象を作り出す心因を
あぶり出す。そうすれば、相手が散らかすことに一定の理解をもてるかもしれない
し、相手も散らかすことで周りにどれだけのストレスを抱えさせているかを
気付くきっかけになる可能性があります。
ただし、このやり方は、最初に相手の言い分に耳を傾けて、相手の価値観に沿って
考え抜くことが大切です。
自分の言い分を並べても、ケンカが再発するだけ。注意しましょう。

幼いときから、掃除する・しないの狭間で、どっちが正しいんじゃいと思っていた
疑問は、どちらかに決めようとするから解にたどり着かなかったのだと思います。
掃除する方は、掃除しない方の分まで背負うから損じゃん!と考えると、相手へ
怒りがこみ上げます。

昨今、掃除をすると徳が舞い込むというお話を耳にします。
掃除したくなければ、掃除しなくて良い。ただ掃除しなかったなぁと後悔する自分が
残るだけです。後悔したくなければ自分だけでも掃除すればいい。
結局人は自分を幸せにするために、生きているのです。故に自分が幸せな方法を
取捨選択するのが、素直な生き方です。

アイツのためにと我慢してやるから、憎しみやストレス、損した感じが残る。
自分のためにと思ってやれば、どんなこともストレスに感じません。
徳が舞い込むのは、きっと自分を満足させられた結果、幸せを呼び込む体質
に生まれ変われたのでしょう。

そういう意味で掃除って、心にも体にもいいですよ。