話しかけ方で客観性がバレてしまう

犬の散歩をしていたら、同じく犬を連れた男性から突然「KOMAさんですよね? 町内会の紙は記入してポストに入れといたらいいですか?」と話しかけられた?

一瞬、キョトンとした私は事の意味を理解して、「はい、ではお願いします」といってその場を後にした。

日常のこんなささやかな場面一つとっても、その人の周りの見えている度合い、即ち客観性が露わになる。

このご近所さん、一体なにが頭から抜け落ちてたのだろうか?

私から見た風景

通常知り合いでも無いかぎり、犬を連れた見知らぬ人に間髪開けず近寄ったりはしない。
なぜなら、犬同士の相性が悪く、ケンカを始めるかもしれないから。

ところが今日の人は、見かけたらズンズン寄ってきて唐突に話しかけてきた。
その距離感のない態度に思わずひるんだほどである。

おまけにいきなり要件をズバっとおっしゃる。こちらに心の準備をする隙を与えない。

近づいてきて、要件だけ言って去ってく人。これでは要件に違和感は抱かずとも対応には違和感を抱きまくりである。

ご近所さんの頭から抜け落ちてたもの

私を見かけた瞬間ご近所さんの頭には、「あれっ?あの人たしか今年の班長さんのご家族じゃ…。例の紙どうしようか?」という思いが浮かんだはずである。

だから近寄っていって要件を言った。
そのとき、その人の中に「私(KOMA)」という存在はいない。いきなり話しかけたら「私」が驚くんじゃないか、だから前置きが必要なんじゃないか、という考えはなかったようだ。
【挨拶をして相手に自分の存在を認識させる必要性】とか、【自分が誰なのか名乗って安心をさせる配慮】とかが頭からスッポリ抜けている。

在るのは、ただ「自分がどうしたいか」。

周りの見えていない人ほど、自分以外の存在は目に入らない。

話しかけ方一つでストレスが変わる

このような全てをすっ飛ばした話し方は、カウンセリングの現場ではよく見かける。

いただくコメントやご相談の背景の説明が全くない状態で「私の姉が○○っていうんです。でも私こんなに困っていて、どーしたらいいですか?」という持ちかけ方をされる。
一般の人と助けを求めている人は、私の中で別扱いしているので、このときは不快になるというより、相当追い詰められてて困ってるんだな、と判断する。

だがこれは職業人として見た場合に限られるのであって、普段の生活の場ならいちいち背景を想像しなくてはいけないので、面倒に感じる。

背景まで含めて分かるように話してくれることは、コミュニケーションを重ねる上で思いの外、効いてくる。それだけ分かりにくい話ぶりは、ストレスを与える存在なのだ。

話しかけ方から分かること

話し方一つでストレスを生むのもそうだが、その人のもつ客観性、さらにはその人の親が持つ客観性もバレてしまう。

主観的に話す人がなぜその振る舞いを身につけたか? というと、間違いなくそう育てられたからである。手本となるはずの親が自分勝手で主観的な振る舞いを見せれば、自ずと子は真似る。無垢な心を持つ子は、自分を守ってくれる存在である親を疑うことを知らない。よって、身につけた振る舞いを見直すことすらないのである。

客観性のない子の裏に客観性のない親の存在あり。そしてその親の親もまた…、というのは誰もが容易に想像がつく。

従って話し方一つで一族全体の客観性までもがバレてしまう。

そんなことまで露わになるなんて、本当に恐ろしい。 同時にヤバいという危機感がわく。
人のふりみて我がふり治せとは、まさにこのことなのだろう。

知らない人に接するとき、顔の見えない相手に電話するとき、いきなりメールを送らなければならないとき、ちょっとばかり立ち止まって相手の目線で見ていきたい。