心の扉をノックする

話をしていても、全く盛り上がらないときもあれば、ものすごく盛り上がるときもある。
その違いってなんだろうと考えてみた。

それは、質問や投げかけの内容が、話している当人達の心の扉をノックしたか

どうか。
ちょっとした言葉がキッカケで、どぉーっと雪崩のように話したいことがあふれて
きて、合いの手が入ると、もっと加速して話したくなるときは、盛り上がっている。

あのね、あのね、←子供が大人に一生懸命話しかけている感じ。
そう考えると年齢にかかわらず、自分のことを話したい欲はあり続けるんだと
思う。

この心の扉、どうやったら見つけられるのか、そして、どうやったら自分も興味のある
相手の心の扉をノックできるのか。
ここ、結構迷う所。突っつくとこを間違えれば、全く興味の持てない話をわんさかと
押しつけられ、ゲンナリ。
どうせ聞くなら楽しい話が良いね。

楽しい話とは、聞いている人も、その話の世界を想像して、いいなと思えること。
誰かのエゴの話じゃなくて、みんなが幸せになれる話。
一方的に聞くより、自分も聞きながら、考えて、意見を言える雰囲気。

実は、私、結構この手のことを悩んでいる。
心の扉をノックして、聞こうとすると、相手の話したいことを話されて、内心
「つまんないんだけど・・・」ってなることが多い。

泉谷先生が、”個人”対”個人以前”というのが、世に混在していると言っていた。
おそらく、私が”個人以前”とつきあうときは、「つまんない・・・」がわき起こってくるん
だろう。
”個人以前”は、神経症的で、周りを気にしすぎて、その割に極端に自分だけ
幸せになろうとする。
だから、話がちっちゃい。ものすごく器がちっちゃい。
ということは、話すネタも重箱の隅を突っつくようなしょーもない話が大半。

そういうときでさえも、真剣に耳を傾けようとするから、自分が疲れる。
そのとき、私の前にいる人という存在は、まるで”コンピュータ”。
なんかワケワカラン演算を繰り返して、答え出ましたとディスプレイに表示している。
生きている感じがしない。

もし、これが”個人”だったとしたら、私といることを経て、その瞬間に変わろうとする。
考えを昇華して、新しいステージへ行く。
その様は、生き生きとして、みずみずしくて、一緒にいるこっちも、ワクワクする。
その場には、相手と私が、奇跡のようにその瞬間を共有していて、反応がぐんぐん
進んで、別の空間を創り出しているかのよう。

ところで、”個人以前”が”個人”としていることは出来るのか?
そのような瞬間はあるのか?
ワカラン。
”個人以前”が不要な鉄仮面を取り去ったときに、本来の”個人”が現れるのは
明白なのだけど、鉄仮面はどうやったら取れるんじゃい。

人はやっぱり生ものだ。
だから鉄仮面なんてかぶるもんじゃない。
岡本太郎さんが、「上を向いて歩こう」がヒットして人気絶頂だった坂本九さんに
「人気者は大変ですな」といった瞬間に、坂本さんがぽろぽろ泣き出したという
話。
これが鉄仮面を本人がはがした瞬間。
まだ、私の力では、どういう心の変化が鉄仮面を降ろす心情に繋がったのか説明
できないけど、なんとなーくぼやーっと分かる。
誰でも本当は”個人”なんです。
余計なもん、ぶら下げるから、死んだ仮面づらになる。

仮面づらにならんためには、どう生きたらいいか、考えんにゃ~いかんね。