我々はマウンティングされまくっている。だからしんどい。

人間というのは、思ったより善良な生き物ではありません。ためしに心温まる場面と、落胆する場面、どちらが多かったか思い出してみてください。落胆する場面の方が、圧倒的に多かったと思います。

常識的であれ、礼儀正しくあれ、と教わっているので、我々は表立って人を貶めることはしません。けれども、無意識に、裏で、こっそりと「私の方が、上よ!」と、マウンティングしているのです。それこそ老若男女問わず。

日常にこれでもか!とあふれるマウンティングとマウンティングの餌食となる人々。今、これを読んでいるあなたは、マウンティングの餌食となっている側で、心底疲れているんじゃないですか。もし、そのしんどさをどうにか出来るとしたらどうでしょう。

世界は解釈次第でどうとでもなります。マウンティングが跋扈する世の中、真の人間の姿に迫り、心の重りを幾ばくか軽くしてはみませんか。

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噛み合わない会話

たとえば、誰かが大変な思いをしていると吐露したとします。そのとき周囲はどういった反応をするでしょうか?

おそらく初っぱなは「大変ね」と同情を示すでしょう。しかしその後、「私は(もっと)こうだった」「私の友人は、さらに大変な思いをした」と、さらに困難なケースの披露を始めます。披露してる人は、「あなたのケースは大したことないから大丈夫」と慰めているつもりなのでしょう。ただその慰め、意味はあるのでしょうか。

披露してる人は、あくまでも「相手を思いやっている」つもりでしょう。けど肝心なことを忘れている。それは、話を耳にした瞬間、自分や友人のことを話したくてウズウズする自分が出てきたということ。言葉なんて、そう簡単に見つかりはしません。よく聞いて、よくかみ砕いて、よく相手の意図を取り込んで、きっちり整理して、考えながら話すという過程が必要です。ウズウズより、うーんうーん、という産みの苦しみが勝ります。その苦しみがない時点で、「相手のことを思いやってる」から、「私の話したいを発散する」へと意味が変わっていってしまっているのです。

別なケースでも全く同じです。今度は、誰かが好きな人に受け入れられた喜びを報告してきたとします。

初っぱなは「ヨカッタね~」と共に喜んでくれるでしょう。しかしその後、さまざまな探りが入ります。「学歴は?」「お勤め先は?」これは自分の持っている、もしくは将来持つであろうお相手像と比較するためです。

質問してくる人は、あくまでも「恋人の話をするきっかけを作ってあげてる」つもりです。けどそれは本人が話すまで待ってあげればいいこと。なのに話を聞いた瞬間、どんな相手か確認したくて仕方なくなってしまっています。

良い質問なんて、そう簡単に見つかりはしません。ちょっとしたヒントを元に、どう聞いてあげれば気分が良いかな、恋人との甘い気持ちを上手く引き出してあげられるかな?と考えながら話すのは、意外と難しいです。難しさを感じないでいる時点で、「恋人の話をするきっかけを作ってあげてる」から、「値踏み材料をゲットする」へと意味が変わってしまっているのです。

人間という存在のとらえ方を変える

世の中で「相手のためを思ってやっている」と意識されていることほど、エゴ丸出しなことはありません。「相手のためを思って」と意識する時点で、都合の良い理由を並べ立てようとしているわけですから。

はっきりいって、誰かに何かをやる、ときは、「相手のためを思ってやる」のではなく、「自分がやりたいからやる」以外の理由などありません。「相手が思ってること」は確かめようもありませんし、自分の勘が百発百中当たる保証もありません。

恐ろしいのは、思い上がりを思いやりと勘違いして、躊躇なく向かってくる輩が大勢いることです。私も、あなたも、彼も、彼女も、みんな息をするかのように、このような行動をしています。

だから人付き合いがは疲れます。誰しもが相手より「私の方が、上よ!」と競争し合う社会で、心安らげるはずもありません。けれどもこの実情を積極的に受け入れたとき、実は疲れる度合いが軽減できるではないか、と考えています。

マウンティングありきで付き合っていると、かりにそれが始まったとしても、「うわ!また競争始まったよ!」と冷静に見つめることができます。巻き込まれることがなければ、さほど疲れることもないでしょう。

人間はどこまでもエゴイスティックで、都合のよい解釈をし、隙あらば感情のゴミを投げつけようとする醜い存在です。それでいいじゃないか、性善説や美徳なんて放り投げてしまえ、マイナスからスタートじゃ!と思えれば、人の良いところはすべて加点され、最終的に人を好意的に見られるようになるのではないでしょうか。