対話することの難しさ

日々の生活で、対話を心がけようとしても、相手に引きずられて、会話になって
しまう。
日常であったこと、過去のエピソード、それらをつらつらと並べるだけでは、話を
している双方に変化が現れない。

対話は意識する所から始まる。

先ず相手と自分は別の考えを持つ存在として、ここに居るということを認める。
つまり相手に同意を求めない、意見を押しつけない、否定しない。
意外とこれが出来ない人が多い。

話の途中で割ってはいる人、頭ごなしに否定する人、自分の考えに同意しろと脅迫
する人。
そうやって自分の分身になれと目の前の人をコントロールしたがる人間の多いこと。
結局そのような人間は、自分一人でその意見を背負うことができない弱小人間。
だから相手にも同意させて、村を作りたい。
反発や独自意見などもってのほか。
相手にそれをやられると、こっちもゲンナリして、もうお話するのを辞めましょうとなる。

対話は相手を傷つけない、ねじ込めない。
だから何時間やっても、嫌な気持ちにならない。むしろ爽やかな感動が残る。
ただしやっている最中は、自分を律する強さを持ち合わせる必要がある。
自分と戦い、自分をなだめ、自分の意見を整理し、口に出すというのは、結構な
労力である。
そういう労力の積み重ねがあるから、爽やかな感動に繋がる。

平和で、なんにも考えなくていいような人間交流は、ただの時間の浪費に過ぎず、
終わった所で何も残らない。
辛く、自分が試され、真剣に取り組まねばならぬ人間交流は、その苦労と引き換えに
大きな成果をもたらしてくれる。

だから私は辛くとも対話をしてみたい。
相手が会話に逃げてしまって、楽しようとしても、対話の世界へ引き戻せる力強さ
が自分に備わったなら、いつでも対話できるのに・・・と、自らの力不足を明日の
糧にしようとした次第です。