責任を持てる人持てない人の差

配偶者Sと話していると、一種気持ち悪い感じがする。
それはどんな判断も、私に負わせているから。

私が既に述べたことを、まるで我が述べたかのように語り、最後に同意を求める。
”えーー、ご自分の意見は?”
主体性がない。

話して気持ちのよい人というのは、主体性も心もその場にきちんと在る。

その人の意志がはっきりとそこに現れ、その意志が論理的にも人道的にも正しくて、こっちが思わず頷いてしまう。

この2者には明らかな語尾の違いがある。
前者は聞き手の同意を執拗に求める話し方。「○○でいい?」と相手の意見を聞くふりをして自分の考えの責任の所在を相手に負わせている。
後者は自分の責任であることを明確に表明する話し方。「○○しましょう」と自分の意見に責任を持ちながら、相手に協力を要請している。

私は自ら責任を持つことの出来ないふにゃふにゃした考えの前者が生理的に苦手だ。
生きている全ての人は自分の考えに責任を持ち、自分の考えを元に行動する宿命を背負っている。
他者の意見というのは、行動の指針の参考にはしても、主体にしてはならない。
そのことを忘れて、他者に全て決めてくれと依存する様は、まさにゾンビ。

素敵な人の周りには爽やかな風が吹いているように感じる。
それは生き方の潔さが周囲の空気さえも変えているから。
前向きに生きているからこそ、周りの空気は入れ替わり、その人に会う度・話す度に発見や驚きを感じられる。

やっぱり生き方って雰囲気そのものに伝播するんだ。
素敵だなと思う人は例外なく失敗も含めて色々体験し、そこから愚直に学んでより最短で正解に近づくルートを知っている。
そのことがその人を頼れる人に魅せ、存在感を醸し出す。

嗚呼、そういう人と一緒になれるにはどうしたらいいんだろう?
私の心持ちを変えて、その人と釣り合いの取れる心を掴まなければ。