無意識に傷つけてしまう怖さ

昨日対話の練習をしていて、人を傷つける場面に出くわした。
養育環境に恵まれ、健全な人間関係を作れた人は、無意識のうちに、これが
当たり前という基準を自分の中に作る。
そして、その基準を他人に押しつける傾向がある。

「親に感謝して当然」「離婚は悪いこと」など、世間ではマジョリティーがそうそう

とうなずきそうなことを当たり前理論として振りかざす。
相手の環境などお構いなしだ。

でもね、親に虐待された人に対して、感謝して当然というのはどうだろうか?
夫から暴力をふるわれた人に離婚するな、死ぬまで踏ん張れと言えるだろうか?

自分がたまたま幸福だったからといって、他者が同じような幸福さを味わったわけ
ではない。なのに自分と同じ価値基準を要求する。
それは、過酷な環境に耐え抜いて生きてきた人々の心を傷つける行為ではないか
と私は感じた。

誰しも人を一度は絵に描いた家族や恋人を想像したろう。
恵まれた人と同じ環境を手に入れたかっただろう。
しかし、どうにもならないことがある。
生まれつき障害を持った人に、健常者と全く同じ生活をしろといっても無理だ。
障害のような目で理解できることは、無理だと同意するのに、目に見えない問題は
考慮しないで、こうありなさいというのは、想像力がなさすぎではないか。

私はこの無意識の暴力に憤りを感じる。
この暴力の下にどれほどの人が悩み、アイディンティティを失いそうになり、
ときに精神的被害を受けているのか。
相手のアイデンティティは、どんなに理解できなくても犯罪でない限り、一旦は
認める必要がある。
そういう尊重がなくては、人間同士の繋がりは、廃れる一方。

人は知らなくてはならない。
一人一人が別々の考えを持ち、自分の考えを表出し、実現する権利がある。
それは何人たりとも、否定する権限を持たない。
思想、性別、人種、環境 全てにおいて、onlyOneの考えがあって当然だ。
そういう当たり前のことが、揶揄されることなく受け入れられる個人主義が
一人でも多くの人に拡がることを願うばかりです。

ですから、一人一人の心の内を聴く対話は必要なのです。