育った環境で人間への理解が変わる?

自分を冷静に見たとき、外で人に接触するとき
「この人は、私の悪い点を指摘するのではないか」と構えてしまっていることが分かった。
常に私は人に監視されており、悪いことをしたらイエローカードを出されるものだと
思いこんでいる。
だから正直、人が恐い。

実際周りはやさしくて、いい所を褒めてくれたり、助けてくれたりする。
なのに、知らない人==私にとって害 のような構図が頭にできあがっている。

これが私の思いこみフィルター。

おそらく子供の時、親から常に批判を浴びていたので、他者とは批判を浴びせる人

であるという理解が定着したのであろう。
これがアダルトチルドレンの弊害でもある。

無垢な心を持って他者に近づいていける人が本当にうらやましく思う。

さて、このフィルターどうやって除去したもんか・・・。
身近な経験では分かっている。他者は私を攻撃したりしない。
なのに、攻撃前提。

しかし、攻撃前提は間違えていない気もする。
相手と仲良くしていて、意見が違ったときや、相手が明らかに間違えているときに
私が相手の意に沿わない発言をする。
途端に、相手はムスっとする。
そして、相手も私になにか指摘しないと気が済まない状態に陥る。
相手は素直に指摘されていることに耳を傾けられないんだ。
ココが村社会的だなぁ。

YESの枠から外れたら、即攻撃。だとしたら、やっぱり人は批判を浴びせてくる
対象なのだろうか?

真の人間同士の関係は、多少なりとも緊張感がある。
村社会の人間同士の関係は、YESの中ではズブズブ、NOの中では攻撃。

アダルトチルドレンの自分は、村社会の人とは距離を置き、真の人間関係を結べる
人とは、緊張を持ちながらも大切な仲間として接していきたい。
だとしたら、村社会95%の現代は、やっぱり批判や攻撃されることを前提に、距離を
置くのが安全か?
まだ悩み中。わからん。