思いやりは社会生活を送る上で必要

”思いやり”をもって人に接しましょうと幼稚園時から習ってきた。

・重い荷物を持っている高齢者の手伝いをする
・妊婦さんに電車の席を譲る
・障害者の手助けをする

これらの行為は理由なくして当然のこと、行為こそが思いやりと信じてきた。

”思いやり”は円滑な人間関係を築く上で欠かせない重要なファクター。
思いやりのある人は好かれ、思いやりがない人は退けられる。それがこの社会。
”やさしい==思いやり”でもあり、相手を思いやれない人間は、冷たいヤツと定義づけられる。

でも、”思いやり”の正体ってなんなんでしょう?

思いやりのある人になりたいと人は常に願います。

なぜなら思いやりのある人は受け入れられやすく、好かれやすい。
思いやりを持つことによって、価値ある自分を保てそうな感じです。

ここで話は変わって、人間どうしの関係性について考えます。
私のイメージでは、人間は一人一人暗闇に浮かぶ恒星です。
自分が光りを放っていても、反射材がないと光りさえ見ることが出来ません。
反射材となるためには、恒星として光りを放つのを止めて、全く別のものになることです。
誰かの反射材となるとき、自分という我を超越した状態である-即ち自分の価値観を捨てるんです。

高齢者の荷物を持つのは、私が荷物を持ちたいから・習ったからではなく、高齢者の当人が重いなぁと思っていることを私が察知するからです。
その瞬間だけは私の価値観は消滅している。
そうやらないと、思いやりではなく親切の押し売りになってしまいます。

相手がどんなに弱い存在であっても、その主体を奪ってはいけません。
高齢者が荷物を自分で運びたいと思うなら、それでいいと相手を尊重することができて初めて人助けの出来る精神を身につけたと言える。

これだけ社会から思いやりを求められるということは、それだけ他人の価値観を見つめなさいと言われているのです。
へつらうではなく、尊重するという微少な違いを見極めながら生活することを望まれているのです。