アナタに合わせるよ

優しくするとか相手を尊重していることを、相手に合わせることだと思ってる人がいる。
だからなのか、どんなことにも「合わせるよ(笑顔)」という返しをしてくる。

暗に提案することを押しつけられた側は、どんどん疲れていって、「いい加減、自分の意見はないのか?」というと、「アナタに合わせているのに、なぜ文句を言うのか?」と真顔で答えてくる。


合わせるというのは、相手を尊重するポーズをとりながら、裏では相手のために考える労力は割かないぞ!と言っているも同然である。
真の意図を隠して、自分をいい人に見せかけているというのは、ある意味、静かな悪人のやること。

私が付き合ってきた男性は、このようなタイプが多かった。
女性が何を喜ぶかを調べる気もなければ、考えたくもない。
かといって、自分の趣味を押しつければ嫌われるので、黙って同じパターンを繰り返すか、女性の具体的な言い分を実現してればいい、と思考停止。

私は、そんな相手に思いやりあふれる人だな~と感じられるはずもなく・・・まもなくお別れを切り出す、というのがパターンであった。

付き合うということは、双方が同じくらい相手のために頭を割くということである。
自分とは違う価値観、違う生育環境を持った人のことを、できうる限り理解しようと務めることに価値がある。
そこをないがしろにして、やれプレゼントだの、旅行だのを思い出と称して組み込んだところで、人間同士をつなぐパイプは一向に太くはならない。

一緒に居て心地よい相手とは、自然と同じくらい相手のために頭を割ける人である。
そういう人と巡り会うためには、まず自分が相手のために頭を使えること。
そこを鍛えられる自分にならなければ、自分にふさわしい相手に出会うことができない。異性に対しても、同性に対しても。

世の中を見渡すと、「私を理解してぇ~」「ボクを守ってぇ~」という声であふれており、要求、要求、要求の嵐。
要求の仕方は、積極的もあれば、消極的もあるけれど、とにもかくにも人という人、全てが、なんらかのクレを連発している。

言ってみれば、それだけ多くの人が愛情に飢えており、自分の価値を見失っているということ。

ホントのところ、誰も自分を幸せになんかしようとはしてくれない。
こちらが相手を幸せにしたら、相手は幸せをもっと味わいたくて、こちらに優しくしてくれるだけ。
無償の愛なんて、大人の世界には存在しないと覚悟することだ。
反対に、相手から無償の愛を求められることを追い払っていい。

会って疲れるということは、自分だけ労力が吸い取られてるってこと。
そんな相手とのつきあいは辞めよう。独りになる怖さと向き合おう。
依存は何にもいい結果を生まない。