親は本能のままに生きる動物か、知性ある人間か

いろいろな人間模様を見ていると、人には二種類のタイプがいるように思います。

一つは、原始的な感情に沿って生きるタイプ。もう一つは、理性的に考えて行動するタイプ。どんなに学歴を積もうとも、法律で禁止されている賭け麻雀をする輩や、国の最高指揮官にありながら、経済的に追い詰められている人を尻目に優雅な姿を見せつける者は、いわずもがな前者です。

我欲を優先する人は、残念ながら原始的な感情が勝る脳を持っているのです。

では、我々にとってもっとも身近である「親」はどうなんでしょう。原始的なタイプ?それとも理性的なタイプ?

敢えて分析することで、自分の弱点に向き合えるかもしれません。

f:id:idea-for-life:20200522214018p:plain:w400

動物から人間への進化とは

生物学上の親になるには、治療のケースを除き、性交を行えばいいです。一般的に性交には快感が伴うため、さほどハードルは高くありません。「親」になるのは、特別なことにように思えますが、快感に身を任せれば、誰でもなれます。

つまりどんなに酷い人間であっても、「親」にはなれるのです。

赤ちゃんは生まれてすぐに自活できませんから、誰かに世話されるしかなく、親が命綱となります。生物としてのそのあり方が、親を特別視させます。どんなめちゃくちゃな論理を振りかざさしていても、親は世界を構成するすべてであり、何事もただしく采配する神と子どもは信じています。

そこで過去を思い出してみてください。親は何を語っていたでしょう。不安、不満、愚痴、自己卑下。つねに感情を口にしてはいませんでしたか?これは動物的な生態です。生物は、外界からの悪影響を逃れるべく、命に関わりそうな危険はまっさきに感じるように出来ています。そのルールに則り、親は動物的反射に基づいてアウトプットしてきました。

でももし考える力があれば、「どうやったらこの嫌な感情を避けられるか」といった方向へと舵が切られていたはずです。感情の脳領域(大脳辺縁系)から理性的を司る脳領域(前頭前野)への切り替えが生まれていたはずです。部位活性化の移動により、考えがダイナミックに変容したはずです。

結果として「自己を守るためだけに(本能)」力を注いでいたのが、「別の誰かを守るために(理性)」に転換していた。こうやって動物から人間へと進化を遂げていたのだと、思います。

親の生態

この進化を経ると、自らが生んだ子であっても、他者なのだという概念を抱きます。「よかれと思って」ではなく、「あなたにとって何がいいか話し合おう」というスタンスへと切り替わっていきます。

それは己の価値を絶対視する世界から、別の価値を含有するという昇段を導きます。

生物学上の「親」はその進化を遂げていたでしょうか。人間という格に昇段していたのでしょうか?

「否」だと、私は思います。世間体とか、学歴のような物差しにばかり気を取られていて、別の価値感=私という個の価値感 を何一つ見ようとしていなかった。

彼らは考えることなく、ただ備わっている動物的なものに振り回されていたのだと思います。

人間になるために

もし、貴方に人を見る目が欲しいというのであれば、相手が動物的であるか、人間的であるかをよく見るといいでしょう。思いの起源がどこにあるかを探りましょう。

たとえば、猛烈にアピールしてくる異性がいるとして、アピールの理由が「オレが貴方を手に入れたい」のか、「オレと貴方が幸せになる方法を考えたい」のか。オレ一人が主語の場合は、オレが満足してしまったら、情熱はすぐさま消えます。貴方がどれだけ大事にしてくれるかなと期待しても、そんなの眼中にありませんから、釣った魚に状態です。どれだけ貴方という別の価値を含有する気があるかを見極めましょう。

我々は生物である以上、動物的側面から逃れられません。それゆえ、不正を行いながら詰め寄る記者に「オレは寝てないんだ!」と言い張る会社のトップ、明らかな性的犯罪の証拠があるのに「女性から誘ってきた」と曰うジャーナリスト、まともに謝罪会見さえできない芸能会社社長のように、「自己を守るためだけ(本能)」に乗っ取られてしまうのです。

そのことを十分掌握した上で、親を客観的に見、我が身も客観的に見るよう鍛えていけば、人間としての生涯を終えられると、私は信じています。

もし今あなたが親を嫌いだと思うならば、おそらく動物な親のでしょう。「自己を守るためだけに(本能)」に生きてるんでしょう。それをどれだけ冷静に見られるかに、あなたの今後がかかっています。