迷子の時に母が迎えに来てくれた、あの感じ

昨晩「金スマ」に曾野綾子さんが出演していらして、身体が不自由な人と旅行にいくボランティアに参加した際、一人の女性が上手に入浴をサポートしてくれたお陰で、全員が湯船にゆったりつかれたことについて話があった。

その女性に曾野さんが、「なぜ、上手に介助できるの?」と尋ねたら「姑の世話をしていまして」と。

どうも気の強い姑の介護を通して、懸命にコツを掴んだそうで。
それを聞いた曾野さんは「あなたがそういう苦労を背負ってきたお陰で、こうやってみんなが気持ちよくお風呂に入ることが出来た。」と言葉にしたところ、女性の目から大粒の涙があふれた。

このことをどう捉えたらよいだろう?

涙があふれたということは、奥に仕舞っていた感情が今報われて表に出てきた、浄化したということだと思う。
ずっと弔われなかった魂が成仏したみたいな感じ。

きっと人は大なり小なり不安・不満を抱え、それを誰かに認めて欲しい・分かって欲しいと願っている。その一方でそんな自分の都合など分かって貰おうとする方が傲慢という思いもあり、苦しい感情を押し殺して耐えしのいでいる。
でも、もし奇跡が起きて、その感情を温かく包んでくれるチャンスがやってきたとしたら。。。

これは子供が迷子になって、不安で不安で必死で母親を探しているときに、母親が迎えに来てくれて心が緩む感じに似ている。

我々一人一人に、この母親の役をすることは可能だ。
ただし、人の表面だけみて、イエス・ノーを言っているうちはまだまだ人間半人前。
母親などという偉大な役割は担えず。
我々は相手の心を底を見通さなきゃならない。
そーしないと、人の心をもった人間にはなれんのですよ。「畜生」程度ですな。

追記
このテーマは「愛着とは何か」ということにも通じると思う。
母親とは、己の心が求める最も安心できる先である。
私たちは皆孤独で、ヘタをすれば孤立していて、寂しい々と小さくつぶやいている。
私が相手に体のいい言葉をいっても、相手が愛着同様の温かみを感じなければ、それはただのおべっかということになる。

人の心に寄り添うということは、他人は愛着をどこに感じるかを想像することである。
私は未だ愛着の正体を知らずにいるために、ともすれば相手におべっかを使い、相手を落胆させる。
まだ言葉には確実に表しきれない愛着のなんたるかを、言語とか理性ではなく心という感触で掴んでいきたい。