赤ちゃんは母のぬくもりを求めて手を伸ばす

赤ちゃんの時、手を伸ばせばお母さんが抱き上げてくれる。
肌に触れる母の温もりを通して、”守られているんだ”感が身体中に広がる。
それを我々は「愛」と感じる。

手を伸ばせばすぐそこに愛を満たしてくれる存在がいることを以て、相手に愛着を抱き、心が安定する。
実はこれは大人になっても続くんじゃないかと思うのだ。

大人はそう簡単に他者に手を伸ばさない。だって「大人」だから。
心の弱み<寂しい><独りぽっち><構って欲しい>という叫びは、ネットを通して発信されるものの、表立って示されることはない。
大人だもん、そんな甘えたこといっちゃダメだよねっ・・・て。

けど、結局やっぱり自分が抱き上げられることを望んでいる。
もちろん大人だから物理的に抱き上げられることを欲しているのではない。
心が抱き上げられることをを望んでいるのだ。
「よく頑張ってるね」「君だからできたんだよ」「あなたと友達でよかった」という言葉は、母の如く心を抱き上げてくれる。
自分をそのまま受け止めてくれる。

私は長い間マーシャ・M・リネハンの「認証戦略」の意味を考えていた。
なぜ、そこに「居る・在る」ことを認めるのがそこまで大切なのか?と。
今は分かる。それ、即ち母が与えてくれるであろう「抱っこ」と同じ効能を実現しようとしていたということが。

人は理性を保ち、人に優しく、余裕を持って、建設的に生きようとするとき、必ずこの「抱っこ」に相当する心の拠り所を必要とする。
がしかし、今手を伸ばしても、「そんなもん、ねぇよ、幻想幻想」と手を払いのけられてばかりで、ガックリと肩を落としまだ独りの世界に堕ちていくしかない日々。
だったらいっそ、エキセントリックやことをやって注目を集めたれ~とか思っちゃって反社会的な行動、過剰な行動に出てしまうのだ。

言ってみれば、社会全体が「オオカミがきたぞー」とホラを吹いている状態。
SNSに溢れる数々の情報はまさに、誇大化した自分を見せようとする姿を映した鏡そのもの。
みんながみんな、抱っこを求めている。
---私にはそんな風に見える。

人は生涯通して「愛着」する相手を必要とする。
愛着そのものが、人と人を結びつける絆の本質に他ならないからだ。
友人、恋人、家族といった人々に囲まれて暮らすことが、今以て幸せなことだとされるのは、まさに愛着こそが何にも代えがたい宝石であることの現れ。

それが得にくい現代だからこそ、「結婚」という一つのファンタジーにかすかな希望を見出そうとする若者がいるのかもしれませんなぁ。