かわいくすり寄っていけない自分

甘え上手は、好かれやすい。
とかいうフレーズをどっかの雑誌で見た気がする。

 私はその「甘え上手」というのが、どーも苦手で出来ないなぁ。

そのそも誰かに受け入れられるということが信じられない。
常に自分は[人に受け入れられない][必要とされない]という意識が強く、高校や大学で同級生にすり寄って、「○○ちゃん(同性ね)、大好き♡]と人への好意を示したことがなかった。

それは幼い頃親に「KOMAちゃん、大好き♡」(頬ずり)とされたこともなければ、親の元にハイハイしてすり寄っても抱きかかえられなかった ことにあるのだと思う。
私の人生は、親が私を否定することから始まっていた。

だから無償の愛がなんだかわからないまま育った。
そうなると、”そもそも好意ってなんだっけ?”みたいになっちゃって、好意のあからさまな表出なんて、不可能になってる。

親が子の愛着対象となり、子の安全基地として作用しなければ、子は[この世のだれも自分を受け入れてくれない]という真理を心に刻む。
深く刻まれた真理は、生涯その子の行動に影響を与え続ける。

人を無邪気に信じられる人は幸せに育った人。
私のように、どこか引いて様子をうかがいながら付き合う人は、幸せには育っていない人。

後者のような私でも、いつか人を信じ、甘えてみたい。
そのために、今日も明日も愛着の取り戻し方を考え続ける。