岡田尊司氏の「愛着障害」を初めて読んだとき、愛着とは [赤ちゃんが親に「だっこぉー」とねだって抱っこされること] みたいなイメージで、これは”青年以降は関係ないことね”と思っていた。
ところが今朝ぼぉーっと考えていたら、結構私自身最近まで愛着を求めてうろちょろしていたことに気がついた。
例えば抱き枕に抱きついて寝たり、犬を抱っこしたり、彼氏と腕を組んだり、家の中でSさんについて(トイレとか風呂)まわったり・・・。
どこかで一人ポツンと残されるのが寂しくて、引き寄せたりくっついていったりとせわしなく動いている。
それ自体は意味のあることとして気に留めたことがなかったが、思い返すと幼い頃母を求めていたあの心にそっくりだ。
自分が不安定だから、なにかに寄っかかっていたい、包んで欲しいと思うのは、特段珍しいことではない。
ただし子供のときは、「頂戴」→「どーぞ」の構図だったのが、大人になると表面上自立しているので、「大丈夫です」→「無理するなよ、手伝うよ」に変わる。
子供の時には分かりやすく表出していた愛着は、大人になって鳴りを潜めたようにみえて、実はちゃっかり残っているじゃないかと思う。
だから外では立派な上司が家に帰って、奥さんににゃんこ言葉でゴロ甘えだったり、売れっ子芸能人がいまだに汚いぬいぐるみを抱いてないと寝られないということが起きる。
大人になってもパブリックな場面では自立を見せるが、プライベートでは甘えを見せるという2極性をとるのは、実は生涯に渡って愛着が居続けるためではないかと思う。
愛着は求める側ばかりに益があるのではなく、与える側にも益をもたらす。
人間は自分の居る意味を求めたがる。
与える側は、もらう側にとって換えの効かない唯一無二の相手となるため、自分の存在意義を身体で感じることが出来る。
円滑で深い人間関係を構築するために、「愛着」というのは欠かせない存在なのかも知れない。
しかし、この「愛着」が極端に欠乏した人生を歩むと、大きな害をもたらす。
例えば八方美人。
誰でも好かれたいと思う心は、出発点として絶対的愛着を感じられる「安全基地」の欠如から起きる。
防御する基地がないのだから、砲撃されたらこっぱ微塵に砕け散る。
それが恐ろしいので、砲撃を避けるためにみんなにいい顔をする。
結局自分の意見は最下層に置かれ、人に振り回される人生を歩む。
例えば自慢しぃ。
誰も自分を認めてくれない・守ってくれないから自ら認めてくれるよう売り込みに行く。
小学生が「あのね、ボクね、○×△出来たんだよ(エッヘン)」と延々自分語りをするが如く、大人になっても途絶えることなく自慢話をする。
当然周りは飽きるので、当人をあしらうようになるのだが、そのことが余計に愛着不足を加速させ、もっともっと自慢しようと聞いてくれる相手を探しまくる。
「愛着」が然るべき位置に定まらないと、それを求めて依存的に振る舞う。その様子の逸脱が激しいと、病気として治療せざるを得なくなる。
「愛着」は身体も小さくかわいらしい容姿をもつ幼児のころは比較的得られやすいが、不幸な環境により幼き頃に「愛着」が得られなかった人々は、その後どのようにすれば心が落ち着き、心の拠り所となる安全基地を得られるのだろう?
その一つの可能性として恋人の存在が挙げられる。
恋人は友人と違いかなりの部分をさらけ出す相手だ。
己の持つ弱い心甘えたい気持ちを、互いに出し合い・受け取り合いしながら、親に愛着していたのとは違う新たな愛着を形成する。
そこで胸にぽっかりと開いた穴を埋める作業が進む。
またもう一つの可能性として親友の存在が挙げられる。
ただの友人という枠を超え、互いをなくてはならないほどの存在として認め合えれば、深い友愛精神の元、愛着を形成することが可能だろう。
我々が家族以外の人間と関係性を持って生活することを当然と見なすのは、もしかしたら家族との愛着が失敗したときのリスクヘッジとして、家族の外との繋がりが代替えの愛着をもたらすからかもしれない。
意外と人間はしぶとくできている。
さて、結論らしい結論は出ていないが、大人になった今でも想像していたより愛着を求めながら我々は生きているということ、そして愛着がうまく出来上がらないと生活において様々な悪影響が出ると言うことが分かった。
ちまたで言う「性格」と呼ばれるものには、「愛着」が深く関わっているのかも知れない。甘えん坊とか性格キツイとかね。