世の中には人を魅了し会話をリードする人間と、ぞんざいな扱いを受け会話に受け身な人がいる。言い換えると存在感のある人とない人といったところであろうか。
存在感のある人は「場」の空気感を掴むのが上手い。
相手の懐にすっと入り、相手が話したくなる話題を絶妙に振り、よく話を聞いてくれる。
相手はその空気感にえもいわれぬ居心地のよさを感じ、もっとこの人と一緒にいたいと思う。
この存在感のある人。よく観察してみると、非常に頭の回転が速く、注意力がある。
相手のふと言った一言、事前の情報を組み合わせて相手が気に掛けて欲しがっていること・話したがっていることを「どーぞ」と前振りする。
これは素人考えだが、記憶の連合野が活発に動き、瞬時に相手のデータを状況に合わせて引っ張り出しているのだと思う。
逆に存在感のない人は「場」の空気感を潰したり、掴めずにいる。
相手の状態とは無関係に土足で上がり好き勝手な振る舞いをしたり、はたまた黙り込んでその場につったっているのである。
相手は圧迫された空気感、張り詰めた静寂に居心地の悪さを感じ、あぁこの人とは一緒に居たくないなと感じる。
この存在感のない人。よく観察してみると、相手に全くと言っていいほど関心を寄せず、注意力もない。
相手のことはお構いなしに意見を押しつけ質問をしまくるか、「場」を放棄してぼぉーっとしているかである。
記憶連合野がほとんど使われていない状態と思われる。
頭の使い方が180度違うこの2者。
当然脳を使っている方はさらに脳の使い方に磨きが掛かり、人付き合いが上手くなる。
私は「人付き合いが苦手で…」と言っている人は、人生をナメていると思う。
自分の脳をどう使うかは自分でしかコントロールできない。
なのに自分の意志が「脳を使う気ありません」と主張するということは、他人にどうにかしてくれと丸投げしているのに等しい。
人間って、「考える葦」でっせ。
脳を使わず、考えもせず、「寂しいから恋人や友達が欲しいんです」ってどう考えても無理難題でしょう。
他人の為に脳を使えなければ、他人もまた自分のために脳を使ってなどくれません。
単に同じ空間を共有したとしても、それは協業とか絆とは関係ない。
やはり人付き合いは、人のためにどこまで脳を回せるかに掛かっているのです。
省エネ脳による人付き合いはないですから。