うれしい、楽しい、優越感に浸れる、全能感を得られる→これらを脳の報酬と呼ぶことにする。
報酬の感覚は人共通だが、何を報酬と感じるかは人それぞれである。
例えば、幸せな子供時代を過ごした人が、好きな人と結婚して子供に同じ経験をさせることを報酬と感じる人もいれば、不幸な子供時代を過ごした人が、自分の子供を幸せにすることを報酬と感じる人もいる。はたまた不幸な子供時代を繰り返さない、未来に伝承しないために子供をつくらないことを報酬と感じる人もいる。
一つのテーマ(子を持つ・持たない)でも、なにを報酬とするかは各人でばらける。
そして報酬がばらけることが、私は健全だと思う。
ただ大まかにいって、報酬は二手に分かれる。
積極的報酬と消極的報酬だ。
積極的報酬とは好きなことに全身で向かっていって報酬を獲得すること。
消極的報酬とは嫌いなことを遠ざけることによって、「痛みを感じることを避ける」という報酬を獲得すること。
どちらも同じくらい自分に強く働きかける報酬だと思う。
ところでもし、今自分の中に存在する報酬が有害であったなら、放置してよいのだろうか。
過食嘔吐を繰り返す場合、確かにたくさん食べて心の空虚が満たせる報酬・吐くことで太る心配から解き放たれる報酬はあるだろう。しかし栄養不足、嘔吐による口腔内の問題、いつまでも消えない心の空虚感といったデメリットが存在するもの、また事実。
諸手を挙げてその報酬を推薦することはできない。
そんなとき周囲は、「その報酬、いびつだよ。歪んでいるよ。」と反応する。
このアプローチは事態を悪化させる。
そもそも心が満たされないから代替え品としての食べ物で満たしているのである。
食べ物があるから辛うじて”精神の統合(バランス)”が成り立っている。
なのに最後の頼みの綱を外せを外せと言われるのは、エベレストの頂上の断崖絶壁で命綱一本でなんとかバランスを保っている人間に、「命綱要らないって」と綱を切ることを勧めているのに等しい。
誰だってそんな怖いことできない。
だから「綱は持っていていい、安心できるならその綱は必要だ。ただし綱にばかり頼るのではなく自力で崖を登ろうね」という両方兼用のアプローチがよい。
報酬はその人の内的世界において重要な意味を持つから今なおそこに存在し続けている。
本人が価値あると考えている物を、部外者が「価値ない」と決めつけることはできない。
本人の報酬を尊重した上で、ちょっとずつ害の少ない方向に変わろうねといった緩い軌道修正が、最終的にダイナミックな報酬の変更を生む。
ここでちょっと話の方向を転換する。
「人は見た目が9割」と言われて久しい。その見た目と報酬はおおいに関係がある。
例えば、体幹筋肉を鍛えることが流行っているが、それは体幹を鍛えることで姿勢を良くし見栄えをよくしようという流れからも来ている。
つまり鍛えている人は「見た目をよくする」という報酬を得るために筋トレをする。
例えば、女性は化粧をする。化粧をすることで顔のメリハリをつけ、顔色を鮮やかに見せる。
それは「女性として華ある存在でいる」という報酬を得るためである。
そぅやって一つ一つ報酬を積み上げると、黙っているだけでかなりの特徴を自分が被ることになる。
秋葉原のヲタクは筋肉もファッションも興味がない。だから身体は動けばいいし、顔はついていればいい。洋服は肌を守れればいい。
彼らにとって見た目の報酬とは、機能として十分であり且つ自らの趣味を妨げない存在であること。それがアキバファッションであり、それはそれで最適化されている。
他人を見た目で判断できるのは、装い・たたずまいだけで、その人がどのようなことを報酬と感じているか分かるから。
そして人は自分と似た報酬の人となら話を共有しやすいので、見た目が似ている人に親近感を持つ。
このように報酬というのはありとあらゆる場面で、人を支配しているのである。
「自分の報酬ってなんだ?」「あの人の報酬ってなんだ?」「ビジネスにおける報酬ってなんだ?」と考えていくと、今まで”感覚”と称してぼんやりと見えていた物が、とたんに輪郭を持って見えてくる。
価値観という言葉は便利だし、多方面で使える応用力のある単語だ。
しかし”価値観が違うから”という言葉に代表される便利さ故に、人々の思考を止めてしまっている。
肌馴染みのない”報酬”という視点を導入すると、個別に報酬の中身を考えることになり、一段と人を理解することができる。
それも報酬は人ごとにばらけているのだから、思いこみや経験だけでは計れない楽しみがある。
過去私たちは、金太郎アメのように同じ価値観を持つことを半ば強制されてきた。
しかしその結果、皆が認める価値観のレールから外れた人は自らを卑下し、周りからも叩かれた。
果たして1つしかない価値観で、全ての人が幸福感を得られるであろうか?
それよりも人それぞれの報酬ってなんだろうな?と考えながら、その時の自分に適合した報酬の中で生きていく方がずっと素直で身の丈にあった生活が送れる。
KOMAの独り言のような文章ですが、興味のある人は自分の報酬ってなんやろな?って考えてみてくだされ。