自分が弱いから、誰かに頼りたかった。
誰かと一緒にいれば、寂しくないばかりか、必要とされている感も味わえて満足だった。
…でも、やっぱり誰かの言葉に傷つき、違和感を覚える。
悪気はないけど、相手の主観的な言葉の数々。
[寂しい]、[傷つきたくない]のやじろべえ。
どっちつかずで苦しかった。
結局傷つくのが嫌だから、誰かから遠のいた。
そしたら、最初は寂しくなった。自分の無価値感に潰されそうになった。
そのうち、寂しさから解放された。無価値感とは無縁になった。
私は疑問を持った「なぜ他人は悪気のない(キツイ)主観を述べるのか?」と。
そして考えついたことは、[未知なる他者を発見していない他人が多い]ということ。
自分の思いが至らぬ他者がいると思えば、ギャップを埋めようとして、他人は必死に他者を観察する。
けど、自分が支配できる他者・掌握しうる他者がいると思えば、自分の価値観を押しつけても、「常識」「みんなが」という免罪符の元、許されると思う。
自分以外の全ての人に対する【他者】という意識の甘さによって、自分の価値観にすべてを巻き込もうとしている。巻き込まれる側の息苦しさや居心地の悪さは、想定するよりも深刻だ。
一緒にいて心地よい相手とは、”こちらを尊重してくれてるな”と感じる空間を演出出来る人。
つまりこちらを観察してくれる人。純粋に観察してくれる人。
もちろん、自分もそうあらねばならぬ。
ということは、自分の足下にアンカーを下ろしつつ、他者の世界を観察する開放感を備えているということ。
まず[自分がそのような姿勢を身につけるにはどうしたらいいのか?]徹底的に考えることが必要。
そして相手がそのような姿勢を持っていることを見極めることが重要。
寂しいからといって、誰かれとなくすり寄っていったり、縁を重要視して、足下さえ固められない弱い自分のまま近づけば、いずれ相手に捨てられるか利用される。
そこまでして己を傷つける必要があろうか?
友達作りなんて、後回しでよろしい。
大切なのは、地固めと選別眼を研ぎ澄ますこと。