話の通じない人との苦痛な暮らし

発達障害者もどきのSと暮らすのは疲れる。
話をするためのボールを投げても、受け取ろうとせず、さらにボールを暴投で返す。
まったくもって会話のキャッチボールが出来ない。

「他人の心を理解する」という概念が捉えられないSは、心をパズルのピースのように扱い、このピースはこの箇所と解答があるかのように答えを私に求める。

すべてが離散的で、解答ありきになってる。

実際、人が人を理解するのに、「正解」などというものはない。

そして「完全に理解する」こともできない。
どうしても乗り越えられない互いの隔絶を前に、必死で相手を理解しようと努めるのみだ。
そのために相手を観察し、相手の言葉に耳を傾ける。

この連続的でカオスな世界をSは理解出来ない。
簡単な数学の問題と同じく解はどこかにあると探し求め続ける。
分からなくなったら、自分の思いつくものを解にする。
従って、トンチンカンな答えを毎回出し、理由を尋ねると「自分だったらこうするから」という摩訶不思議なことをいう。
そもそも「自分」がびっくりするほどマイノリティーなのに。

人間が抱く、もどかしさ、自分への疑念、不安、といった感情が理解出来ないS。
答えを求めてもがきつづける努力ができないS。
そんな人に相手の何が理解出来ようか。

生まれて初めて接した母がなんらかの精神疾患だったS。
そのせいでまともな感情発達をしていない。
パーンとキレるか、ひたすら受動的かの二択の感情しか持たない。
それでは、他者と感情交流することは難しかろう。

私は、Sに周りの人が当たり前に理解出来る話をして「全然分からない」と返されたとき、カチーンとくる。
Sの中では、”オレに分かるように説明すること”が当たり前だから。
私自身の人格や感情はナシ。ただおしゃべりロボットみたいにSに分かるように人間感情を解説する役を仰せつかっているらしい。

こんなとこいたら、気が狂うわ。
話が通じない人との暮らしは地獄の苦しみ。
私の人生には、なぜ心を通わせ合うという機会がこんなにも存在しないのだろう。
家族運、薄すぎ。