聴くだけのカウンセリングの限界

カウンセリングを受けると、ある一定の高揚感が訪れる。
それは、自分の話を心から聞いてくれる心地よさ。
日常出会う人は、聴く訓練を受けていないので、最後まで聞いてくれなかったり、話の腰を折ったりする。
そこで溜まる不満は小さくても、積もればそれなりのストレスだ。
だから聴かれることで、一気にストレスが解消される。

この手法は、来談者中心療法(傾聴型カウンセリング)と呼ばれる。

答えはすべてクライアントの中に存在し、カウンセラーは答えを表に出すためのガイド役に徹するのだ。
しかし、この手法には限界がある。
それは、クライアントが答えを出そうとして壁にぶつかったとき、壁を乗り越える足がかりが与えられないこと。
クライアントの自己が弱くて、とてもじゃないけど壁をよじ登れそうにないときは、いつまでもそこで停滞することになる。

大切なのはカウンセラーがクライアントの力を適切に見極め、場に即した補助具を提供すること。
そのためにカウンセラーは、足がかりとなる”共感”を身に付けなくてはならない。
ところが”共感”に対する訓練は通り一辺倒なもので、カウンセラーの元々の共感力が低ければ、場に沿っていない補助具が提供され、何度かクライアントは挑戦するも失敗に終わり、諦めの気持ちでいっぱいになる。
そこでまた誰も助けてくれる人のいない暗闇に後戻りだ。

私自身、5~10回クリニックに通うと”良くなりたい、けど、成果が見いだせない”という停滞感に悩まされた。
それはけして私自身の問題ではなく、カウンセラーの問題を見抜く眼・共感力の欠如が問題だったと思う。

では、自分がカウンセラーだったとしてどのように対処すればよかったかというとまだそこは考え中だ。
深い共感とはどこから生まれるのか?愛とはなにか?愛着と人格の関わりは?といった諸処の疑問に自ら答えを見出したとき、適切な補助具を出せる人間になるのだと思う。