「おもてなし」の限界

昨晩、TV番組「アメトーク」でおもてなし上手な芸人さんが、各々のおもてなしを披露していた。
どれもこれも至れり尽くせりで、プロ顔負けのすばらしいものであった。

・・・でも、ずらっと並んだ芸人さん、どの人もメインを張れるような人物ではないのだ。
おもてなしの心が人を魅了するならば、彼らはMCをし、ピンでも仕事が舞い込み、冠番組を何個も持っていてもおかしくない。
で、現実はやっぱりそこまでの人気は出ない。

これ、即ち何かを物語っているとしか言いようがない。

なぜ芸人さんたちが「おもてなし」に血心を注ぐのかというと、「うまい!」という一言がたまらないからだそうだ。
「認められたい」「褒められたい」それが彼らをおもてなしに走らせる理由。
実は料理を施しているように見えて、彼らが承認を施されている⇒そんな構図。
だから招かれた客さんも視聴者も、”よくそこまで頑張れるな~”とか”料理うまそぅ”とは思えても、”あの芸人さん魅力的!”とか”ファンになりたいとは思えない。
どんなに小さくても施されること目的とする行動は、人の心を萎えさせる。

翻って、一線で活躍している芸人さんは、なんの見返りも求めず自らの使命に沿って懸命に与えられた場で能力を発揮する。
時に後輩にごちそうすることはあるだろうけど、そこそこの労力と金銭の負担に留まる。
血心を注いで、までとはいかない。

あれ?めっちゃめちゃ頑張っている人が、最終的にご褒美としての人望をもらえるかというとそうでもない。
実は、これ、人望がない、人気がない、友達ができないという人々がしている勘違い。
「私、友達に誠実なんです」「いつも手土産を欠かさないんです」「友達の話をよく聞いています」、・・・でも、全然そんなことさえしない別の人のところに友達は遊びに行ってしまう、なぜですか?ってね。

人間はどんな些細な見返りでも求めてるなぁ~っと感じると、疎ましく思うのです。
よく「尽くす女は、重い」というのも、まさに”尽くすという怨念が、『私を見て~、褒めて~、大事にして~』”を感じさせるからです。
人は自由でいたい。誰にも邪魔されず好きなように感情を抱きたい。それを阻害し、絡み取るように「こっちへこーい」と感情誘導するものは、”ウザ”くてしかたがないのです。

「おもてなし」する心はすばらしいと思う。
ただ、おもてなしによってのみ自分を認められようとすると失敗する。
あくまでも添え物的な要素なんですね、おもてなしは。
自分自身の使命を全うすることの方が、ずっとずっと大事。

自分が美しく燃えて、その炎で人を温めることがおもてなし。
燃えてさえいない自分が、無理矢理火を起こして人を温めているとなれば、痛々しい以外の何物でもない。
どんなときも、自分をまず一番に考えることが大切なのです。