今ごろ気づいた「人間関係を作るのに大切なこと」

親と連絡を取らずに長い期間いると、彼らを客観視できるようになります。

改めて彼らをみてみると、絶対に付き合いたくないタイプの人、に分類されます。理由はただ一つ。私を理解しようとしないから。

私を理解しようとしない人と一緒にいても、楽しくありません。ひたすら相手に合わせることを強要されるのは、苦痛極まりないです。

あの親の下に生まれたことが、まっさらな人生ではじめて築く人間関係を、ひどくねじ曲げました。以来、私とだれか の関係は、今日に至るまで、残念なこのモデルを踏襲してきました。


大人になって、一番良かったことは、この関係に疑問を抱けるほど多くの情報に触れられたことです。ドラマや、書籍から、こんな風に信頼関係が出来上がるんだと知ったときの驚きは、とてもじゃないけれど言葉で表せません。それほど、新鮮で、自分の生きてきた世界とは全然違いました。

それでよかったね、チャンチャン!となれば良いのですが、残念ながら急に変われるものではありません。本当の苦しみは、信頼関係を知ったときから始まったのです。

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友達なんて一人もいないという事実

まず最初に思い浮かんだのは、「私には、だーれも友達がいなかった」という事実です。ここでいう友達とは、心を通い合わす、すなわち互い理解しようとしていた間柄の人を指します。

クラスメートのように一緒に時間を過ごす人がいても、遠足のとき一緒にお弁当を食べる人がいても、それはとどのつまり、「一人でいるのが寂しいから、一人でいることを避けるために集まってきた」営利目的の人です。

互いが互いを利用しあうのは、信頼関係とは違います。

「相手を理解しようとし、理解されようとした関係があったか」を思い返すと、恥ずかしくなるくらい相手を理解しようとしてなかった自分に気がつきます。ただただ、相手とおしゃべりをして、聞いた言葉に触発されて意見をいっていたに過ぎません。

だから言葉を重ねても重ねても、一人に戻ったとき心に残るのは、虚しさだけ。

友達のいたワタシを気取るより、もはやだーれも友達いなかったと開き直った方が、もっと清々しくいられたのでは?と思うほどです。

すべては観察から入る

では、どうやったら友達を作れていたのか、を考えると、他者を理解するってなんやねん?ということに行き着きます。

理解するの一歩目は、相手に影響を与えることなく相手を観察することです。観察から入ります。観察のあとに、なぜ、そのような行動に出たのか?を考えます。

あの人はなぜ同じ話を何回も繰り返すのか?「その話、まえも聞いたよ」ではなく、繰り返す様子を観察します。すると、焦って同じ話をしているのか、目新しいことがなくて昔を回顧することしかできないのか、昔抱いた気持ちを成仏することができずに抱え込んでいるのか、なんとなく見えてきます。

それから口を開くのです。理解してから、口に出す。これが理解しようとする、態度です。ゆっくり思考して、なぜに触れてみる。そうすると、空気が変わります。相手にとってみたら、その場が気持ちを吐き出すためや自慢するためだったのが、理解されるため、にシフトします。

こう言われると、そんな話の仕方、やったこともないし、してもらったこともないな、と思うことでしょう。そのとおりです。私達の会話は貧しいのです。うらやましいと思っているあなたの周りの人間関係も、しょせん貧しい会話のやりとりに過ぎません。

人間関係を作るのに大切なのは「愛」

人生は終わりに近づくにつれ、無理がきかなくなり、心の通っていない人との関係は廃れます。それが本来の姿だったのです。ライフステージとか、置かれてる立場の違いは関係ありません。

病院に行きたいから送ってもらえる友達が欲しい、とか、一人でお茶するのが寂しいから誘う相手が要るとか、といった営利目的のつきあいは、本来の姿に戻った自分をふたたび偽りの自分に塗り替えます。そんなことにうつつを抜かすのなら、相手の行動のなぜの一つにでも答えられるよう、観察しましょう。


「愛」とは、その人がその人らしくいることを応援する気持ちです。目の前にいる相手に、ほんの少しでも「愛」はありますか?

「愛」するから「信頼」が生まれるのです。「愛している」というと、恋愛とか親子愛みたいな壮大なものを思い描きがちですが、もっと足元の小さな相手を理解しようという気持ちにこそ、「愛」です。

私の人生にもっとも欠けていたものが、「愛」でした。親は私を「愛」していなかったのです。営利が彼らの目的でした。だから、今、私は彼らとの関係は廃れています。なるべくしてなった結果です。そして将来、私が誰とも関係性を持てなくなったら、それは私が他者を営利目的のために利用したからでしょう。

人間関係は、「愛」にはじまり、「愛」に終わります。「愛」がなければ、そこにあるのは、ただの「欲の塊」です。