人とのつきあいについて考える

一人でこもっていると、人とのつながりがぽつぽつ切れていく。
それもまた「いっかぁ~」と思っている。
いままで人との絡みの中で疲れてきた自分から解放されるから。

一般に学生の時の友は一生の友という。

しかし、今の私に学生の時の友はいない。
なんやかんやでつきあいにくくなって、疎遠になったのだ。
しかし、この事態が生活環境の違いによってのみ生じたとは思えない。

自分の何十年前を振り返ってみると、私は「友達」という名の羽根飾りをつけて、自分に箔をつけようとしていた。
見た目のいい子、話題の豊富な子、勉強できる子、交友関係の派手な子といった一目置かれる存在とお近づきになろうとしていた。
反対に、地味な子、おとなしい子、話題のない子に対しては、まるでクラスに存在しないかのように振る舞っていた。

当時はそれでイケてる自分が好きだったし、輝いている同級生は多少まぶしく気後れするところはあったものの、なんとかついて行ってた。
時が過ぎ、大学に進学していった彼らは、そこで様々なバリエーションに分かれ、工学系の私は地味な生活を送っていた。

その頃もまだ、羽根飾りは必要だったので、それなりに彼らとつきあっていた。
さらに10年、15年経って、自分の価値観がダイナミックに変容する事件があり、描いていた未来とまったく違う方向に人生が転がり始めた。
軌道が変更されつつある中で、今までイケてた世界というのが、本当に輝いていたのか、ふと疑問に思うようになった。

元来私は親との関係さえもまともに築くことのできない人付き合いド下手人間。
だからか、イケてる軍団の中では、どちらかというと存在感が薄かった。
存在感のなさを痛感しながらも必死で羽根飾りを必要としていた自分は、等身大の自分とはほど遠かった。
つきあっていた相手はどこか私を見下げている・まともに相手をしていない感じがした。
当時は自分に魅力がないからだと一方的に自分のせいにしていた。

でも、今はそうは思わない。
もともとイケていると思っていた人々は、人間としては未熟だったのだ。
私と同じようにまともに人付き合いが出来てなかったのだ。
ただ、見てくれの羽根飾りが多かっただけ。
それを証拠に、私はイケている人たちの言葉が何一つ印象に残っていない。
おしゃれや、合コンや、受験なんかの話はたっぷりしたけれど、そういう体験の中でイケてる彼らのどんな言葉も私の心には刺さらなかったのだ。
それどころか、彼らから羽根飾りとしての立派さを求められ、応えられないことがつらかった。

だから私が本当の意味で大人になったとき、羽根飾りつながりの人々とは切れた。
相手を使って自分を飾り立てる必要がなくなったから。そして相手は人間としての深みに欠け、ただただ目を引く存在であっただけだから。

私が築いてきた関係って、友達関係なんだろうか?
元々友達じゃなかったんではないだろうか?

一方が羽根飾り信仰を捨て一歩先に大人になった途端、羽根飾りを通したつながりが崩れ落ちる。つきあいとしては、THE END。
仮に両方とも羽根飾り信仰者として居続けても、次第に境遇の差が邪魔をして、嫉妬ねたみそねみに片側がとらわれ、関係は破綻する。
だからこそ、年齢を重ねると、人付き合いがガクンと減るのだと思う。

長くつきあっていける人というのは、ポジションの違いの如何に関わらず、相手を理解することに注意を払い、相手の幸せを願える人である。
すなわち、羽根飾り信仰者同士や、片側が羽根飾り信仰者出会った場合ではなく、くだらない外面レースから脱皮し、真の自分を獲得した者同士のつきあいだけが残る。

本当につきあえる人が残っていくのは40代以上かもしれない。
ある程度痛い目をみた経験から、人は自分の生き方を修正する。若いときはそこまで痛い思いをするチャンスがない。
ただ、痛みを希望に変える人と、恨みに変える人がいるので、すべての人が人付き合いに相応しい人格に成長するとは限らない。
つきあう人は選ぼう。
そして自分もそういう人になるように、心を磨こう と思う。