なぜ人どうしがいがみ合ってしまうのか

人と人は助け合うこともあればいがみ合うこともある。
双方の心持ちがある方向に傾けば、簡単にいがみ合う循環に陥る。
そのある方向とはこんな感じだ。

二人の人が川で溺れそうになっている。

一人は泳ぎが得意で、少し離れた岸に自力でたどり着けるとする。
もう一人は泳げなくて、ジタバタしている。
泳げない人が泳げる人にしがみついた。
すると泳げる人が途端に手足の自由を奪われ、水の中に引きずりこまれそうになる。
泳げる人は「オレまで溺れるやんけ」としがみつく人を振り払おうとし、泳げない人は「この人を手放したら自分が溺れちゃう」と必死でしがみつく。
振り払おうとする人と、しがみつく人の拮抗、これがいがみ合いの状態。

この状態を解除しようとするならば、泳げる人が泳げない人に「手をこう回せ」と指示し、泳げない人が「頼む助けてくれないか?」と頭を下げることだ。
しかし世の中がこう簡単に泳げる人と泳げない人に分かれているわけではなく、ろくな絆もない相手に「手をこう回せ」などという必要性を感じないので、泳げない人が溺れるのをただ傍観することになり、なにも悪いことはしていないのに「アイツは冷たい」と反感を買うことになるのだ。

即ちこの世の中を優しくていい世界にしようとするならば、自らが率先して「手をこう回せ」と指示する以外他ない。
そして人に救いの手を差し伸べるためには、自らがまた同じ経験を受ける必要がある。
有り難みが分かるからこそ、やる意義を感じることができる。

私は今丁度その局面にいるのだと思う。
正直、どっちが救いの手を差し伸べる側なのか分からない。
なぜなら双方が救われた経験のない者どうしだから。
どっちも「相手が手を伸ばせばいいじゃん」と思っていては、関係は朽ち果てる。
自分が救う側の責任を背負うことの覚悟なくしては、一生だれかと解り合うことなく暮らすことは不可能なのだと思います。

追伸
私は女性なのでひいき目かもしれませんが、女性が男性に尽くしても、男性はそれを当然と取る節があり、それによって女性は一方的に搾取されるという昭和モデルも未だ実在すると思います。
そのとき、女性に「いつか分かってくれる日が来るよ」と励まし続けることだけが正しいとは思いません。
やはり男性にも手を伸ばす義務、感謝する義務があります。
尽くされて当然と思っている男性は一度上司なりにきつくお灸をすえられる必要がありますね。