他者から、「人に対して配慮が足りないよ」と指摘を受けたときに、人の話を聞かない人というのは、「私は○○のつもりだった」「私は△△しているから問題ない」と答える。
相手が迷惑がっていることには見向きもせず相手の真意を理解することを差し置いて、ひたすら自己保身に走っている。
結構このようパターンの会話をする人がいる。
その人に「今大事なのは、我を張ることではなく、相手により沿うことだよ」と説明してもポカンとするばかりで、むしろ○○のつもりの意図を理解しろっ!!と押し迫ってくる。
こうなるともうお手上げ、それ以上話すことはできない。
実はこのような会話をするようになる背景には、親の育て方、即ち親の会話のパターンが深く影響していると思う。
今ほど”承認”が取り沙汰されてない頃、子育てとは躾や社会へのとけ込みが優先だった。
従って一人一人の人間が抱える内面の世界の扱いは必然的におろそかであったと推測される。
このような世界の中で育った世代は、他人なんぞそもそも理解する必要も尊重する必要もないと感じている。
だから相手が自分を批判してきたときに、他人の理解より自分の考えを相手に理解させることを何よりも優先する。
で、冒頭のやりとりとなる。
当然このような会話を繰り返していれば、自分から人は離れていき、孤立の淵に立たされる。
そこで一生懸命魅力的な見た目にしたり、面白い話のネタを仕込んだりするのだが、本当の問題は他者を人として見ることが出来ていない思考であるから、努力は空回りする。
私自身、色んな人の話を見聞きしてきて、協力が得られる人と見捨てられる人の違いは財力や美醜の大小ではなく、他者をどれだけ人間として尊重できているかの一点にかかっていると感じている。
同じ「話す」であっても、自分の主張を好き勝手に話すのと、相手の心理を代弁するのと、自分と相手の共通点を見つけて双方が乗れる話題を話すのは、全然違う。
【ウルサイ】と評されるのは、最初に挙げた話し方をする人であり、耳障りなのはその人の話を聞いても拒否の感情しかわき上がらないからである。
私が!を主張する人を見れば見るほど、自分で墓穴掘ってるよな~と思う。
「他者はそれほど私の主張には興味が無い」というこの一点が見えてないのだ。
私がを主張することは無駄である。
意見を持つことは重要だが、我を通すことは日常生活においては無駄である。
社長や頭取など責任在る立場の人間が自分の意見を最終的に採用することを、我を通すことと勘違いしている人もいるかもしれないが、それは熟考の末である。
ただ、自分の言い分を押し通したいが為に浅慮の結果を押しつけるのとは違う。
人間は弱い生き物で、他者に自分を正当化して貰いたいと願うものである。
ただ残念なことに、そのような行為に恵まれるのは、3歳までである。
いい年した大人が、いつまでも自分は正しいんじゃ剣を振り回して周りを制圧しようとしても、それは土台無理というもの。
私が!の主張がいかに愚かな行為であるか、それは我々一人一人が己の弱さに向き合いながら超えていかねばならない試練なのだ。
厳しいが生きていくというのはそういうことで、成熟とは人の話を聴けるということなのである。