排他性に向き合うのもいっかな

ブログでえらそーなことを言ってても、所詮私は小さい人間です。
時に批判を込めて世の中を見たり、排他的に他人を蔑んでみてスカッっとする瞬間があったりして、そういう自分もまた自分であると認識する必要があるかな~なんて思います。

世の中に溢れる排他的ワード、ハズれ/スペック/○○ごときが/ありえな~い/ムリっ。

ある意味心に正直で、ある意味自分の弱さの裏返し。
目の前に提示される事象に拒否反応があれば、即座にNO!ということで事象に対する理解を放棄するというのは、自己健全性を保つ一つの手段だと思います。
なんでもかんでも心の中に陥入していては、アイデンティティや思考を持つことが出来な、即ちパーソナリティの維持ができません。自我崩壊します。

だから今日は敢えて排他性を是とすることを前提に考えてみたいと思います。

世の中にはどんでもなく自分の都合で物事を推し進めようとする人がいます。
自分だけが得をし、他人がどうなろうと知ったこっちゃない。
そーいう人を見て、人は排除したくなります。
「オマエは鬼か?!」と。
私もそぅ。胸くそ悪い奴は嫌い。
嫌いは嫌いでもいっかな~と思います。ムリに好きになる必要は無い。
ただ嫌いを前面に出せば、相手も私を嫌いになります。
だからスルーが一番。
何もしないし、関わらない。君子危うきに近寄らずです。

結局そいつがどのような人生を生きてきたかも、これから生きていくかも、そいつの手の中の問題であって、私には関係がない。
ところが排除という関わりを持てば途端に関係が発生します。
愛の反対は、排除では無く、無視。
ならばもっとも辛辣に相手を批判する方法は、スルーなのです。

たまに心がムカツクときは、そぅブログにでも書いちゃえばいい。
そして何が一番頭にきているのかちぃと整理してみた方がいい。
他人に愚痴を言うのは、愚行です。

離婚危機で苦しくても、仕事が上手くいかなくても、大概のことは自分の内面に問いかけた方がいいのです。
恥は自分の内面でなら、かき捨てられるし、受容もされます。

人間なのだから、泥臭い感情を持つのもまた味ではあります。
感情があるから、人に寄り添える。
自分の感情をムリに高尚なところへ持っていって、なかったことにする必要はありません。
処理の仕方だけ、慎重になればいい。
醜い感情をもった自分も、また自分。