結婚に条件を付けるということ

結婚というのは、人と暮らしていくことだから、条件というのはあっていいと思う。
ただし、その条件が内容によっては「?」と思うときがある。

私が思うあってよい条件とは
問題があったときに、しっかりと話し合いが出来る
相手に対する尊重の気持ちを忘れない
自分の問題は基本的には自分で解決しようとする自立心がある
という、人として自分や相手に対する向き合いかたを確立している類のもの。

反対に、これどうなんだろ~と思うのは
年収・身長・学歴・職種といったもの。
これらの条件に憧れはあってもよいが、必須条件としてしまうと、なんだかなと感じてしまう。

昨晩、TVタックルで婚活を特集していた。
番組に参加している婚活中の女性に「年収はいくらを求めますか?」という質問があって、思い思いの額を提示していた。その様子を見て、私はなんとなく違和感を持った。

このような条件を提示することが、醜く思えてきたのだ。
確かに男性の年収は、即生活の豊かさに結びつく。
でも、互いを知る前に「年収」という壁を作ってしまうと、クレ感が優先してしまう気がしたのだ。
男性側が言うタカりに似た感情。

おそらく片側(女性)にクレ感があると、もう一方(男性)も同様の態度を取る。
双方が利己的態度を取ると、互いを強欲だと非難する。
それを婚活だから仕方ないかと諦めるのだが、そんな中から相手への思いやりが生まれるのか、いささか疑問ではある。

ちなみに女性は年収を求めるのに対し、男性は若さと健康と美貌を求める。
これ自体が等価交換できれば、問題なさそう。

でも、ホントだろうか?

時と共に状況は変わる。
年収が下がるかもしれない、病気で仕事ができなくなるかもしれない、不妊かもしれない、老化して美貌が失われるかもしれない。
全てのものは、可変的で、何一つ将来を約束されていない。
だからこそ、ある一過的な等号は、数年の時を経て、不等号になることなど容易に想像できる。

だとしたら唯一変わらないのはなにか。
それは、人間の核となる信念。自分と、他者に関する考え方である。

しかし、信念について多くの人は深く考えることなく生きてこられるので、改めて自分がどういう考えを持つのか説明を求められると、答えに窮する。
当然ながら、自分のことが分からない人間に、他者の考えなど正確に見抜けるはずがない。
いいとこ「フィーリングが合わない」程度の理解だろう。

そんな男女が、条件祭りのように、婚活の場で、あーだこーだ言い合うのは、ダーツの的が背中にあるのに、正面に向かって投げてるのと同じくらい的外れ。

福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」考えが浸透したこの日本において、自分を知り・わきまえた人は、それなりの社会的地位、振る舞いを手に入れている。
結果として、優れた人間がよい職種につき、高い年収を獲得している。

つまり、婚活の相手がよい人がどうかを見極めるには、その人の考えを知ることである。
世の中の、結婚したときはビンボーだったけど、夫があれよあれよと成功して最終的に裕福になりましたというカップルは、女性が男性の人としての魅力を正確に見抜いたからだと思う。

お金というパラメータは、お客様をどれだけ満足させられたかを計る方法である。
たくさん満足させられた、たくさん便利を届けられた人には、たくさん感謝の意味を込めてお金が支払われる。
そういう意味では、年収というのは人を見る一つの指標になるかもしれないが、必ずしも今感謝が返ってくるタームにいるとは限らない。
短期的目線にとらわれて、大事なことを見落とすのは、人生の大きな損失である。

「年収、年収」とタカる気マンマンで、裕福な暮らしの保障を求める人は、おそらくどこまでいってもビンボーな独り者だろう。
金が欲しけりゃ、自分で働け。

ちなみに、TVタックルで家事手伝いのねーちゃんが、相手の年収を「300万円」と書いていたこと、そして若いときは300万円でもいいけどそのあともっと稼ぐようになって自分を支えて欲しいといったことには、正直引いてしまった。
自分で300万円稼いでから、その台詞言ってね。
金を稼ぐって楽じゃないから。
今は平成なんだから、健康な身体があれば、一度は働いて社会を知るのは当然。
それもしないで、なに人の年収のことをぐだぐだいってんだか。
開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。