愛を知らない子供

ーあまりまともに育てられていないー
そう自覚しているけど、本当にその意味を理解するのは、自覚から数年経った頃ということが、よくある。

日常のちょっとした自分への疑問から、「あっ、これはこういう理由だったんだな」と気づくのだ。

最近もそのようなことがあった。

つい今朝方
「私は他者に愛されている・受け入れられていると思えない。だから以前につきあいのあった人と出会うのがとても苦手だ。」ということを思い出した。

愛されていることが前提ならば、人から忘れられてる、嫌われてるという妄想お化けに襲われることがないので、自然体で立っていられる。
ところが、相手が自分によい印象を持っていないという考えにとりつかれると、途端に取り繕いを始めてしまう。
妙に相手をヨイショしたり、自分をさげすんだり。

では、愛されている感をもててる人と、もててない人の違いは何か。
それこそが、人生の出発点、母親との関係に依るのだと思う。

「貴方はいい子。この世に生まれてきてくれて、本当にうれしいわ」と母が我が子に話しかけると、子は愛されていることを肌で感じ、自己肯定感に包まれる。
繰り返しその感覚を味わうことで、徐々に世の中の全ての人は自分を受け入れてくれるという考えの地盤が出来、他者に対して、まっすぐに向き合いつきあえるようになる。

「貴方はダメな子。だからあれもこれも頑張って、普通の子くらいにはなってね。」と母が我が子に話しかけると、子は自分の不出来さにさいなまれ、自己否定感に包まれる。
しばらくすると、世の中の全ての人は(自分が悪い子だから)自分を拒絶してくるんじゃないかという考えの地盤が出来、他者に対して、目をそらし避けるようなつきあうをするようになる。

⇒これって、イジメの構造に似ていないか。

クラスメートから「オマエ、バーカ、デーブ、鈍くさい」と揶揄を受ければ必然的にそいつに苦手意識を持ってしまうために、目をそらすようになる。

親が、生まれた我が子をいじめる。なんとも悲しいことだ。

結局の所、腹を痛めて産んだ子だからといって、即愛情たっぷりにという訳にはいかない。
母親の心が弱ければ、弱い心を補うための補強材として子を利用しようとする。
自信がない母親だと、子供に標準であれ、立派であれ、と脅し、貶めることで大人である自分の方が優れていると自己顕示する。

生まれたときからイジメを受けた子の精神が健全に育つとは、到底思えない。
「我は何者か」のイメージを作り上げる大切な時期に、「アンタはクズだ」とすり込まれるのだから、その後の人生は推して知るべし。

昨日A-Studioでタレントの大島優子さんが、「お父さんとお母さんには愛情たっぷりに育ててもらった」と言っていたのが、ゥワーンゥワーンゥワーンと頭の中で反響している。
私はそんなこと、一度も感じたこともない。
母と父は、子育てという役割を担う存在として私の前にいたのかもしれないが、そこに愛情というものはカケラもなかった。
あったのは、世間的常識と自分(親)正しい主義。

私は愛情を感じたことがないので、愛情が何なのか未だに分からない。
アイスを食べたことのない人が、アイスの能書きや説明をずっと聞き続けているように。