人はなぜ結婚しようとするかと言えば、一つは子孫を作るため、そしてもう一つは自分の居場所を作るためである。
2番目の理由に絞って考えると、そもそも人間というのは誰かに認められ、守られることで安心し、周りも目を配る余裕が生まれる。
やさしくされた周りは恩義を感じ、良好な関係を築こうと努力する。
このことにより好循環が生まれる。
ところで、人口のほんの数%、与えられた安心が十分であっても、脳機能の障害により周りのことに目が向かない人々がいる。
その人と一緒にいる相手は、与えることに不毛さを感じ、疲弊していく。
周りはパワーを吸い取られた結果、怒りやすくなったり、無視をしはじめたりする。
さて、ここでこの夫婦に子供が生まれたとする。
子供は、いつも怒鳴っているお母さん(お父さん)、トンチンカンなことをいうお父さん(お母さん)の間で育つ。
大人はだれも子供の心が傷ついていることに目を向けてくれない。
それが当たり前で育った子供は、子供社会に出たときかなり一方的なコミュニケーションを取ろうとする。
すなわち弱き者には強気に、強気者には下手にでる。
当然子供社会からつまはじきにされる。
家に居場所がない、学校にも居場所がない。
すると、甘い言葉で誘ってくる大人にいいくるめられたり、異常なまでに特定の人に執着しだす。
けれどいづれ不健康な人間関係は終焉を迎え、また一人の世界に後戻り。
一家そろって悪循環にどっぷり浸かって抜けきれない。
つまり、カップルでいることで好循環を生み出す人というのは、各が自立し健全な精神をもっていることが条件である。
そんな組み合わせ、一体どのくらいの割合で存在しようか?
結婚相手を決めるとき、やれ年収だ、容姿だ、学歴だと騒ぐけれど、実際の所その人がどれだけ年に見合った精神的な成熟をしているかが大切である。
成熟をしていれば、他人のニーズをくみ取り折衝をするのでそこそこの年収は確保できるだろうし、人に不快感を与えない容姿になるよう努めるだろうし、先人の見つけた偉大なルール(つまり学問)を知ろうとするだろう。
婚活という場で、コミュニケーションが成り立たない一方、スペックなどというくだらない側面で人を判断するのは、物事の本質を知ろうとせず、結果だけに目を奪われる愚行である。
婚活をしている皆さん口を揃えて「幸せになりたい。温かい家庭を築きたい」とおっしゃる。
それを叶えるためには、なによりも相手を理解し、自分を理解してもらうことである。
相手といて好循環を作れそうか、そんな予感がするか、立ち止まって考えることだ。
年間の結婚件数に対する離婚件数は約3割。
お相手の見極めの難しさを物語っている。
もし、自分が大した成熟をしていないのに、相手には大した成熟を求めているなら、己を省みること。
夫婦は割れ鍋に綴じ蓋なのだから、相手だけにおおげさな要求をすると、まとまるものもまとまらなくなる。
年齢と天秤に掛けて妥協という選択肢を取っても、その後の人生は不幸の連続。
子供が欲しいという願望の強弱は人それぞれだけれど、なによりも自分の人生をよきものにすることが先決だと思う。
自分の遺伝子を継いだ貴重な存在を不幸にしないためにも、相手が気に入らないなら、その人を選択せず、自分を先に変えてみることを勧める。