人は所詮他人ということ

自分が人に誠実であればあるほど、人も自分にそうであるかのように錯覚する。
でも、実際には得することばかりを優先して、誠実とはかけ離れた考えを持つ人もいる。

だから、割り切ることが必要だ。

とはいっても、いままで性善説で生きてきた人が、突然人を信じない!というのはギャップがありすぎる。

心がついていかない。

そこで、ネットにあふれる信じられないエピソードを読んでみる。
そうすると、”いろいろな人がいるのだな~”くらいには思えてくる。
中には、理不尽を押しつける当人の文があって、よくもまぁこんだけ主張できるもんだ、と呆れかえってしまうものもある。
その、「呆れかえる」こと自体がチャンス。

主張している当人は、自分の中の常識があって、もちろん世間一般とはズレた常識なのだけど、そんなことおかまいなしに、自分の主張を続けている。
こういう場を第三者として目の当たりにすることは、トンデモ常識を印籠のように振りかざす人もいるのだと知るのに、またとない機会。

「呆れかえる」を繰り返していくと、徐々に自分の中で、全ての人がいい人とは言い切れないんだな、くらいの感覚は育っていくのだと思う。


私は、人って何?と延々考え続けた結果、人というのは何よりも自分が大切で、自分が認められる事が一番で、でも、他者に認められるためには、自分が役に立たなくてはいけないというルールの中で生きているから、結果として自分が認められるために人に役に立つという理性を背負って生きてるんだな、ということに気づいた。

自己犠牲なんて言葉は、確かにあるけれど、それだって犠牲にすることで自分の心がどこか満たされてるから犠牲を払えているだけ。
何の見返りもなしに、犠牲を払っているんだったら、その人はすでに「人」ではない。たぶん、ロボット。

世の中には、小さいところで、得ばかりを追求する人がいる。
たとえば、人を便利屋のように利用する人、人をさげすむことで自分の心理的地位を確保しようとする人、人を自分の都合で振り回して悪びれない人。

そういう人と付き合って楽しいだろうか?

残念ながら我々が手にできるのは、「我」という存在だけである。
他者は変えられない、けれど自分は変えられる。

自分がつきあって楽しくない人というのがいることを、もうそろそろ知って、いつまでも不適切な人間関係をひきずることなく、自分らしく生きていくことだ。
親だろうと、親友だろうと、幼なじみだろうと、所詮は他人。
そこはビシッっと線を引くこと。