「死にたい」と思うのは普通じゃないのか?

世の中は「死にたい」という言葉に強い拒否感を示す。

そんなこと言っちゃダメだよ。親が悲しむよ。この生活のなにが不満なんだ!
といって、即「死にたい」をひっこめさせようと躍起になる。

でもね、生まれちゃった感情はナシになできんのだよ。そこにあるものを無視して暮らしてなどいけないのだよ。

あるものは、ある。そう思って生きちゃいかんのかね?

「死にたい」ってどういう意味?

人生一度も「死にたい」と思ったことのない人は、よほど脳天気か、めちゃくちゃ恵まれてるか、である。

生きていれば壁にぶつかり、どうしようもなく途方に暮れ、自分の非力さをこれでもか!と味わわざるを得ない日もある。そんなとき、自らに絶望し、未来に絶望する。

だから「死にたい」と思ってしまう。死んで、このどうしようもなさから解放されたい、と願う。

嫌なことから逃げたい。この本能的欲求が、「死にたい」という言葉である。

「死にたい」とは、「逃れたい」という意味である。

「死にたい」と思わせた原因は?

自ら積極的に「死にたい」と思う人は少ない。大概、「死にたい」と思わせる出来事があったから、そう考えるようになった。人は「生きたい」ものであり、それが「死にたい」に転換するには、それ相応の出来事が発生せねばならない。

その出来事とはなにか。

「認められない事件」の多発である。

怒鳴られる、蹴られる、無視される、金銭を巻き上げられる、性的搾取をされる、人権を蹂躙される
そういう「認められない事件」に巻き込まれる度、”あぁ、自分は生きてる価値などないんだな” という思いに囚われていく。

”生きてる価値ないのに、それも毎日こんなに苦しいのに、明日も明後日もその苦しみを味わいたくない”
そう思うと、一日でも早くそこから「逃れた」くて、「死にたく」なる。

「死にたい」の示すもの

つまり「死にたい」という言葉は、その人が酷く「認められてない事件」に巻き込まれていることであり、要は大ピンチなんじゃ!と訴えてるのである。

SOSである。

なのに周りは、「死にたい」という言葉を1秒でも早く遠ざけたいがために、それを封じる。心の底からの助けてを「辞めなさい」と叩く。

もちろんそうする理由はあるだろう。
親しくもない間柄なのに、立ち入ったことを聞いてしまっていいのか?一度聞いたら、また聞いてくれとまとわりつかれないか、など、気になるところは多々ある。

やはり「死にたい」という人は、めちゃくちゃ追い詰められているので、なんの専門知識ももたない人が丸腰で助けられるようなものではない。

だからどちらの言い分が正しいか、など言い切れはしないのだ。

「死にたい」と思うのは異常?

だとしても、「死にたい」という言葉を封じていいのだろうか。出されたSOSをどうするかは聞く側の自由だが、その自由を認めるならば、SOSを出すのもまた自由である。

たった一度くらいなら、せめて封じずにいてあげて欲しい。

生きていれば誰にでも「認められない事件」が起こり、「逃れたい」気持ちに囚われて「死にたく」ことぐらいあろう。「死にたい」と思うのは、異常なんかではなく、日常である。生きているからこそ「死にたく」なるのである。

まとめ

「死にたい」と思うのは、生きてる人に起こりうる普通の感情である。

誰かが「死にたい」と言えば、それはSOSの意味である。

SOSの中身を必ずしもじっくり聞かなくてもいいが、無理に封じさせることはない。「今は、ピンチの状態だ」と当人に自覚させ、専門家に助けを求めるよう促すことだ。