「会いたくない」について考えてみる

昨日、世界仰天ニュースを観ていて「18歳のコナ-・オルソンという男子学生のために一ヶ月卒業式を前倒しした話」が紹介されていた。

コナーは誰からも愛され、勉強も出来、ひょうきんな人気者だった。
そんなコナーが17歳の誕生日、骨肉腫(骨のガン)におかされていた事が分かり、18歳の誕生日に肺に転移し、治療の手立てがないことを知らされ、コナーのための卒業式の2週間前が余命宣告の日という状態から、周りの温かいサポートを受け、立派に卒業したまでを描いた話。

これを観たとき、世の中には周りに愛され受け入れられる人と周りから疎まれ忘れ去られる人がいることを、まざまざと見せつけられた気がした。

特に後者のタイプは、頭の隅にちらっと、”自分だったらこんな風に周りからサポートは受けられないな”と思っただろう。

40人くらいのクラスの中で、そこに存在するだけで周りを幸せにするキャラと隅の方で存在感を消しているキャラと、妙な自慢や難癖をつけたり不快感をもたらすキャラがいる。
さまざまなキャラクターが居ていいか?、悪いか?といえば、居ていいに決まっている。
ただしそこには、愛される度合いに圧倒的な差が生まれる。

周りを幸せにするキャラはなにかと周りに求められ、周りを不快にするキャラは退けられる。
周りを不快にするキャラというのは、心理学的にコンプレックスや自己顕示欲、猜疑心が隠されている場合ば多いそうな。

言ってみれば薄汚れた心が、周りを不快にする態度や言動を生むということ。
自分がもし薄汚れた心にとりつかれていると実感するならば、間違いなく周りからは「会いたくない」と思われるだろう。

会いたくない == ストレスを感じる相手
ということである。

私自身、心から人を信じることも、愛することも出来ず、常に相手を疑い、災いが降りかかるのを必死で払いのけようとする生き方をしてきた。
そんな人間、まったく魅力がないよね。
私に会いたい!と手を挙げる人がいないことに妙な納得をしてしまいました。