美人とブスの待遇の違いから、よりよい社会を考察する

昨晩、ホンマでっかTVという番組を見ていました。
ゲストは土屋太鳳さん。売れっ子女優さんです。

司会の明石家さんまさんは、彼女が美人であること、お気に入りの娘であることから、ずいぶんと持ち上げていました。
やっぱり美人は、何をやっても、いい風に捉えられるんですね。

別に美人の待遇が良かろうと、それはどうでもいいんです。
けれど、その待遇がもたらす自己イメージが問題。

美人は周りから大切にされるから、自分に肯定的なイメージを抱きやすい。
にこっと笑っただけで、相手からとてもよいリアクションが得られる。

でも反対にブスは・・・。
何か言えば、「黙っておけ、ブス」。
笑うと、「お前の笑顔は気持ち悪い」。
こんなことを言われて傷つかない人がいましょうか?
確実に自分の存在に否定的なイメージを抱いてしまいます。

飲み会や集まりで、男性社員は美人の周りに集まり、ブスもしくは地味な女性はぽつんと残され、話しかけられることもない。
このいたたまれなさ、透明人間な感じ。想像出来ますか?
たった一つ挙げたこの経験だけでも、ブス・地味子は、自分に対するイメージを悪化させます。

この自己イメージの良し悪しは、パフォーマンス(成果)に差を生みます。
”私はみんなに応援されているから、大丈夫よね”、と思うのと
”私はみんなから否定されているから、絶対上手くいかない”と思うのでは、
同じ能力があった場合でも、歴然と差がでる。
自分が抱くイメージは、底力にもなれば、足かせにもなるのです。

つまり美人に生まれれば、自己イメージが良くなり、いいパフォーマンスができて経済的にも恵まれる。人生という歯車が上手く回りやすい素養を備えていると言えるのです。(だからといって美人が全員幸せとは限りません)
だったら、ブスに生まれた人は美人とのハンディキャップ分、自己イメージを上げる訓練を受けるよう教育してやれよ!と思うのです。

現在踏襲されているハンディキャップ解消法は、勉強を頑張って社会的に成功すること。
しかし、社会的に成功すると、こんどは男性が引いていくという現象にあいます。
そうこうする内に年を重ね、男性に好かれなかった自分という悪い自己イメージにまた舞い戻るのです。
勉強は一時的なしのぎになっても、生涯にわたって自分を支えてくれる最強ツールにはならない。

容姿がダメなら学力、というのは、えらく凝り固まった価値観ではないでしょうか?
柔軟なモノの考え方、そしてなにより心の支えとなる愛される体験の積み重ねこそが、凝り固まった考えに対抗し、自分らしく生きる方法です。

愛される体験とは何か?それを多くの人が勘違いしています。
褒めること、「親が良い・教師が良い」と思うところを言葉に出すこと、と思っている人が大勢です。
でもやっとここ最近、褒めることの弊害、評価することの害悪が議論され始めました。

誰の自己イメージを上げるのでしょう?
親ですか?教師ですか?
違います、子供です。

子供が自慢に思っていること、苦労してやり遂げたことを認める。そして悔しい、悲しいと思っていることを受け止める。
子供の主体性を奪わないこと、守ること。これが何よりの自己イメージ回復法です。
この具体的なやり方について、我々は議論と推考を重ねる岐路に立たされているのではないかと、個人的には思います。