お相手の品定めから気づく心の貧しさ

誰かの結婚式に呼ばれたとき、まっさきに頭に浮かぶのは「どんなお相手やろ?」です。
どんなとは、どんな顔、どんな人柄、どんな社会的背景、どんな社会的つながり、どんな家柄等々。
結婚が決まったことを祝う気持ちより、自分と比較していい人生をつかんでいないか気になるのは、哀しい女性のサガなのでしょうか。

女性は絶対的幸せよりもなぜか相対的幸せに、より幸福を感じやすいと思います。

それゆえに無意識ながら、いい相手と出会った女性をねたんでしまう。

話は変わりますが、仮に女性が「犬を飼い始めたんだ!」と話したとします。そのとき、まっさきに頭に浮かぶのは「あっそ」です。
けして、「犬種は?血統は?何歳?」とは思わない。

変化を促す対象が人間とペットでは、多いに差があるのだな~と今更ながらに感じました。

我々は対象が人間というだけで、多くのパラメーターで評価をしようとします。
まるでその人を知るためには、パラメーターを知らないと理解できないかのように。
それすなわち、私自身が人を「モノ」的な見方をしていることを表します。

この「モノ」は金を持ってそうだから良い対象。
この「モノ」は頭脳を持ってそうだから使える対象。
この「モノ」は見目麗しいから鑑賞できる対象。

・・・そう、私が最も嫌っていた母親的な思想がしっかりと自分に根付いているのです。
この見方から卒業しなければ、私は私らしく生きることが出来ない。

もっと、その対象そのものにクローズアップして、色眼鏡を掛けず見通すこと出来る人になってこそ、真の人付き合いが出来るのだと思います。

自分の中に眠る邪念を意識上に持ち上げることで、自分の未熟さにまたまた気づくことが出来ました。