「いてくれるだけでいい」を辞めるから競争社会に飲まれる

親であるあなたは子供が生まれる前、「健康でいてくれさえすればいい」と思っていたのではないでしょうか。

生まれた赤ちゃんと出会ったとき、会えた喜びと健康であることへの感謝で満ちあふれたのではないでしょうか。

それなのに今はすっかり忘れて目の前の子供に不平不満。

あなたはみんなに自慢できるアイコンが欲しくて子供を作ったのですか?

周りと比較しはじめてオカシクなった

子供はたくさんのエネルギーを抱えています。
そのエネルギーを学びに転化してやるのが、親の役目です。

ところが純粋に子供を見るのではなく、「自慢の種」にしようと見る親が後を絶ちません。

自慢の種に育てあげるためには、周りと比較をします。
「隣の○○ちゃんはこうだけど、うちの子はこう」

この言葉を投げかけられた子供は、わき上がるエネルギーを隣の○○ちゃんに勝つことに使います。
親の笑顔が見たいから。

でも一人一人個性があって、得意不得意が違うし、伸びる速度も違う。常に○○ちゃん基準を求められた子は、それに到達しない自分を「ふがいない」と責めます。
これはちいさな「うつ」の始まりといっていいでしょう。

競争社会に飲まれる子供達

学校では、テストの点という絶対軸で計られます。
既に幼いころから隣の子と勝負をしていた子供は、テストの点という分かりやすい指標を与えられ、より一層勝ち負けにこだわるようになります。

勉強は詰め込めばあるところまではいけますから、親の期待に応えるためにも子供は必死で頑張ります。

一部はその頑張りに応じた成績を収め、またべつの一部は頑張ったけど残念な成績になる。
その場合、前者が幸せか、というとそうではありません。次は負けるかもしれない、という恐怖が襲ってきて、ちっとも心は安まらないのです。
もちろん後者も自分にダメ出しをして苦しくなります。

子供の持つ柔らかな心は競争社会の中で次第に硬直し、生き生きとした力は失われていきます。

競争社会に疲れた子供が続々と試合放棄

どんなに頑張っても、心から「もう、これで十分」と思えるゴールが見えないまま、ひたすら走り続けることを求められると、当然ながらエネルギー切れを起こします。

そこには柔らかさは微塵も残っていません。
周りを見渡せば、「勝てー、勝つことが正義!」という人ばかり。
「なんでもいいよ」「そのままでいいよ」と言ってくれる人のいない世界は、苦しく先が見えない。

一気に絶望が襲ってきて、試合を投げ出してしまう。
彼らにとって、完全なるゲームオーバーです。

ニートや引きこもりを生み出したのは周りの期待

このように、頑張って頑張って頑張って、どうしようもなくなった子供は世界との隔絶に逃げ込みます。

彼らにとって、これが最後の砦。ここがなかったら自分は崩壊してしまう。
もう誰にもなにも評定されたくない。

心底疲れたんです。

この疲れを生み出したのは、いわずもがな周りからの期待ですね。
子供の興味を伸ばすのではなく、親の期待を押しつけた。
そのために子供は自分が何者なのかを考える機会すら与えられなかった。

中身が空っぽのまま、「走れー走れー」と尻をムチで打たれたら、誰だって心が死ぬ。
期待というと聞こえはいいですが、実のところはムチ打ちです。

これが本当に子供のためと言えましょうか。

彼らの居場所を作ることから始める

世間から隔絶している子供は、居場所を求めています。
自分がいてもいいよ、といってくれる場所。

その場所は、生まれたときに親の抱いた「会えた喜び」のある場所です。
子供はただいてくれるだけでいいんです。
生きてるだけでいいんです。

何も出来なくても、生きててくれることは尊いとは思いませんか。

地球上をはいずりまわったって、自分の遺伝子を継ぐのは扉の向こうにいるその人だけ。
その一人を大切にしなくてどうするのですか?

子供に「そのままでいいよ」というこということは、回り回って親自身に「そのままでいいよ」ということです。
世間体が悪い、周りから何を言われるか分からないという恐怖に押されて、親も自分に「このままじゃダメだ」と言ってませんか?
それが子供へのダメ出しにも繋がって、彼らに伝わっている。だから扉は閉ざされたまま。

自分を認めるから、子供を認められる。
何を出来るか考えるよりも前に、引きこもりの子供がいる今の自分を真正面から受け止めることが先です。
それができたなら、子供の居場所を作ってあげられるかもしれない。

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