子供のときと同じ自分語りはすべきじゃない

私は大人も子供もアピール欲はさしてかわらないんだなーと思う。

理由は、昨今のSNSを見れば分かる。ほとんどの投稿が「私はすごいぞ」アピールだからだ。

たとえば食事に行ったよという投稿。投稿の裏には、「私、お食事に行ける財力があるの!」「一緒に食事する友達がいるの!」「私、誘われるほど人気があるの!」「私はこんな体験も積んでるのよ!」、数々の自分崇拝が立ち並んでいる。目的は、賞賛を得ること。すごい経験をした私を絶賛してちょうだい!
そのお姿は、トイレが無事に出来た子供が周りの大人に自慢げな顔をして、「えらいねー」を期待するのと同じ。自慢したいだけじゃなく、絶賛されたい!を希求する気持ちが猛烈に伝わってくる。

いつからだろう、こんなに人に褒められることにやっきになったのは?昔の大人はもっと品が良かった気がする。「私が」より「あなたが」を大切にしていたような。
とはいえ、大人が集まると、好き勝手言ってた気もする。以前は井戸端会議で交わされてた話題が、単にネットに移って、第三者からも見られるようになったからか?

2012年の研究で、話をすることは食欲・性欲と同じ快楽をもたらすことが分かっている。だから人は自分語りのしやすいSNSという手段が提供されると、快楽に身を任せてベラベラと語るようになった。

ならば、ビジネスという点において、語りを聞きうまく返すロボットが誕生すれば、爆発的に売れるんじゃないか。
話が何巡もする老人にも耐え、あほらしい自慢話に賞賛を与え、相手が何時間しゃべろうとも疲れをみせない完璧な聞きロボット。きっとめちゃくちゃ売れる。性欲を解消するロボットを作ると眉をひそめられるけど、話を聞いてくれるロボットを開発したら喜ばれる。市場規模も考えて後者の方がもうけが大きそう。

薄ら寂しい未来を避けるために

話すと聞く、どっちが難しいか、という問いに、多くの人が「聞くこと」と答える。理由は、話すのは自分勝手でいられるのに対し、聞くことは相手の考えに切り替えなければならないから。自分以外の存在を考察するのは、骨が折れる。何百に一つがヒット商品となるように、他者が考えてることはそうそう分かりようがないんだ。

今後、「聞くという力」のない人は確実に袖に追いやられる。スキルのある人だけが社会に居場所を見つけられるように、聞く力を育んだ人だけが、コミュニティーに居場所を持てる。聞く力のない人はみな、老人になったらロボットに話を聞いてもらうことになるだろう。

でもそれってなんだか薄ら寂しい。だからやっぱり大人は子供と違ってなきゃいかんのだと思う。自分のためというより、見てくれる人のために情報発信する、それぐらいの気構えはあってもいいんじゃないか。

マツコデラックスさんを見習ってみよう!
自分のことを言ってるように見えて、ほとんど聞いて返している。口数少ないのが「聞く」ということではない。あなたの言葉を聞いてる人が「私のことを分かってくれてる」と感じられることを話題にするのが、「聞く」ことである。

一人でも多くの人が聞き上手な大人になって、ロボット相手に話をする未来なんて招くことのないよう願うばかりです。