友達はぼっちじゃなくなるためや寂しさを埋めるために存在するのではない

ひとりぼっちでいるのが心許ない。友達のいないヤツって思われる。押し寄せる寂しさに耐えきれない。とにかく話を聞いて欲しい。そんな理由で好きでもない相手とつるんでいたことありませんか?

家に居場所のない人ほど、一歩外へ出ると、どこかに所属したがる。同じグループ、同じ位の年、同じ見た目の「友達」なる存在に、やたらとくっつきたがります。誰かと一緒なら、心が安らぐ気がして。

でも蜜月はそう長くは続きません。なぜなら、友達は、ひとりぼっちでいることを回避するためや、寂しさを紛らわすために存在するのではないからです。

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友達の存在

あなたにとって友達とはどんな存在ですか?

正直に言うと、【1.自分を着飾る羽】として見てる部分が少なからずある、と思います。「私の親友は…」「休みの日は友達と…」「部活の友達10人もいるんだ」。そういって、友達のいる私を印象づけるために使ったことは一度や二度ではないはず。

世の中は、友達がいない人間を変わったヤツとみなす傾向にあるので、そう思われないように、友達のいる私を装う必要があるのです。まともな人間と認定されれば、それだけ新しい人間関係が築き易いですしね。

それと、【2.自分が寂しいときのお守り役】かな。友達には身に起きたことを全部しゃべっているから、いちいち説明しなくても、すぐに分かってくれるし、気持ちが揺らいだときは、すかさず受け止めてくれそう、と期待している。

きれいごと抜きにして、この目的で付き合っている人は大勢いると思います。友達とは、自分という存在を生かすために必要な存在なんですね。言い換えると、「自分を生かす」ための道具。

だから会ってもWIN-WINにはなれない。両方疲れるか、どっちかが疲れ果てるか、という決着をみます。人は、道具として利用されると、例外なく、エネルギーを吸い取られます。

愚痴の聞き役をやらされたり、自慢話に付き合わされたり、財布にされたり、足にされたりしたときの自分を思い浮かべてみてください。エネルギーがぐんぐん吸い取られていくのが身に染みて分かるんじゃないでしょうか。

これが、私と友達の関係、利用しあう仲。とてつもなくエゴイスティックなところを出発点にすると、余計な取り繕いが入り込ずに済みます。

成熟した大人は滅多にいない

めちゃくちゃ正直に腹黒い自分、腹黒い友達という理解の上に立つと、改めて、人間関係ってなんだろう?と思います。利用しあう仲だけが正解なんだろうか?相手のことを我が事のように喜んだりはできないんだろうか?などなど。

どうなんでしょうね。心の成熟度によるのかもしれません。我慢させられた事や諦めざるを得なかった事を他人が手にしたとき、人はものすごい嫉妬を抱きます。その嫉妬を心の成熟味でなだめられるのであれば、相手のことを我が事のように喜べるだろうし、相手の成長を心から応援できる。

ただ、そこまで到達できる人は、ごくわずか。

成熟した人に出会うことを待つより前に、みなさん人生の後半しさしかかって、疲れに耐えうるだけの気力の方が失われて行きます。だから利用されるだけの人間関係を断とうとする人が出てきてもなんら不思議ではありません。「独りでいる」というのもまた、正解の一つです。

友達にこだわらず「縁」を大切に

「友達」とネーミングするから、関係が固着するのであって、あるときその人と遭ったのなら、それこそまさに一期一会。たまたまの偶然に身を任せて、一時結ばれた「縁」を育てていくと、もはやそこに「人間関係」などという重苦しさはなく、あるものはあるという当たり前の空間が広がるのではないでしょうか。

「自分を生かそう」とするから、人を利用してしまうのであって、「自分で生きよう」とすれば、人を尊重するように変わっていくのだと思います。

私達はバラバラであり、孤独であり、個です。これをどこまでしっかりと腹で受け止められるか、が、人生後半の決め手です。