決断をさせない

私たちは大して相手に負荷を掛けている意識なく、小さな決断を迫ります。
そして迫られる側も、そう意識することなく結論を出します。

でも、迫られるって思ったより高負荷なんです。

たとえば初対面で会った相手に、「どこへ行きましょうか?」と言われると、瞬間心がぐっと押しつぶされます。”私が解を出さなくちゃいけないの?”と。

相手は考えることの全責任をこっちへ丸投げしてきたのです。
投げられた方は、相手の好み・シチュエーション・コスト等を考え答えを出さなくてはいけません。
こちらは黙ってその場に居ただけなのに、いつの間にかエスコート役を強いられてる。
しんどいですね。

相手に答えを出してもらおうとする人、すなわち受身な人は、常に受身であろうとします。
相手になにかを与えるのではなく、相手からなにを与えられるかが、思考の基軸になっています。
基軸なわけですから、どこまでいってもその態度に変わりはありません。

そんな人と一緒にいると自分がどんどん摩耗します。
ですから、一緒にいる相手は選択しましょう。
と同時に、たまには自分も決断する側にまわりましょう。

人は孤独であり、孤独故に自分をしっかりとおぶる必要があるのです。
自分をおぶれない人は、他人にべたーっと寄生します。代わりにおぶってもらおうとするのです。
しかし、人間は一人分しかおぶる力をもたされていません。
もとから他人の分をおぶることはできないのです。

ただし、うつを発症した人に対し、治療として一過的に背負っているものを肩代わりすることはあるでしょう。
そもそもうつ病の人は、自分の分、親の分、他人の分、と多くの荷物を背負いすぎているのです。
荷物を下ろさせ、一度身軽になってから、本当に必要な分の荷物をおぶることが治療です。

よく、うつの人に決断を迫ってはいけませんというのは、こういう理屈があるからです。
決断の渦から抜けて、身軽になって見えてくるもの→が本来の自分です。
心を安らかにする「安心」の世界はそういうところに存在します。

もう少し「決断する」行為自体に意識を向けた方がよさそうな気がします。