全面受入れも排斥も同じ

誰かから質問されて、その質問を何も考えずに受け入れ、答えを出すことと、
同じシチュエーションで、その質問にとりあえず拒否を示すのは、全く同じ次元の行動である。

「質問された」という状況に受身である という意味で。

質問は質問者の意図があって発せられる。

従って、本来ならば質問者の意図をくみ取ってから、返答するのか、否かを決めるのがスジである。意図をくみ取らぬまま漫然と流すか拒否するのは、どちらも積極的に脳を使っていないので、サボリ過ぎである。

質問者と被質問者は互いに他者であり、明確な境界が存在する。
この境界を意識しないまま相手と無意識に一体化してしまうと、「他者の質問=自分が疑問に思ったこと」となってしまい、答えざるをえない心境に陥る。
嗚呼、質問者さんは○○のことを疑問に思っているのね”という一呼吸を置くだけで、境界は自ずと露わになる。

この一呼吸こそが、我を確立し、我を守る手立てである。

弱い自己の人は、境界を確立していないばかりでなく、”人に嫌われたくない”意識が強いので、答えないことが不必要に重くのしかかってくる。
例えば「○○じゃないの?」と質問されて、答えたくないと思っていても、追加で「答えたくないってことはよほど後ろめたいことがあるのね。(or 図星なのね)」と言われると、答えなくてはいけない錯覚に陥る、などである。

○○は、恋人の有無でも、結婚の意思の有無でも、年収でも、なんでもいい。
そもそも被質問者が答えたくないと思えば、それはそれで尊重されるべきものである。
だが、質問者はなんとか相手からデーターを抜き取って、自分と比較して優位に立ちたいと願っているので、執拗なまでに答えに拘る。

要するに比較という器のちっちゃい世界でしか生きられない人間(質問者)が、そこまで落ちぶれていない側(被質問者)の足首を持って、ちっちゃい世界へ引きずりこもうとしているのである。
遠慮なく足首に絡まった手をほどいてヨシ!!

だいたい正直に答えたら答えたで、どこに吹聴されるか分かったものでもない。
その場しのぎで答えたことが、後々仲間内や町内で広まってしまったら・・・と考えるとおぞましくないだろうか。

こういうときこそ、”質問者さんは○○のことを疑問に思っているのね”の一呼吸を置いて、「親から『賢い人はそういうプライベートなことは訊かない・答えない』と教育されている。もちろんあなたは賢い人よね?」と返せばよろし。
もし相手がそれでも食い下がってきたら、「賢さをかなぐり捨てても聞き出したいなんて、下世話に感じる。あなたの品格が疑われるわよ?」と返せば、さすがに引き下がるだろう。

質問内容は的確か考えず言葉を発する側がアホぅなのであるから、ブーメランのようにその人にお返しするのが一番妥当。

どんな質問であっても、その場に立ち止まり、相手の意図をよく考え、自分と相手の境界を明瞭にさせることが、「個」としての責任である。
もちろん「個」の責任なんて、面倒だ。ムラ社会で生きたい、人と同化して生きていたいなら止めはしないが、意心地の悪いことこの上ないだろう。

質問者に真摯に向き合うからこそ、質問の意図のくみ取り、答えるかどうかの有無を判断するのである。
全てを受け入れたり、全てをはねのけたりすることは、真摯とはいえない。
真摯であることは、厳しいことでもある。